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なぜ星を術るのか

 かつては現代より多く、それこそ国家規模で天体観測へ資金と物資、人間が充てられていた。遺されたテキストや痕跡からその意味合いを汲み取ることは考古学者の領分だが遺物にならず現代でも当時の天体観測と同じ動機と意図が働いている分野、または文化がある。それは占星術と分類される。

 占星術は世界各地に手法の違いはあっても存在しており実行されている。例えば星を通じて、または用いて未来を観測するという占いがある。現代の天文学では天体の輝き自体は光源から数億年かそれ以上をかけて届いた光が反射されて届いた際と近い時間をかけて地球に投光されているという。つまり天体の輝き自体は地球の時間軸から観測すると未来ではなく過去の光を観測していることになる。これを天文学から占星術へ変換すると全ての根拠を過去に求める決定的運命論か、光自体に重きを置かず天体の位置変化に着目して現在または未来を占うという。だが天体の位置を観測するにしてもその天体は地球の現時刻から観測した位置であり、光年という天文学の単位を使用して位置の誤差を修正すると地球の時間軸から観測した場合、その天体は視覚で捉えられる位置とは全く異なる位置に存在することになる。また見えない位置に存在する天体を他の天体が有する大きさや光の色からその天体の材質を割り出していきその天体が放つ重力を計算することで"そこにあるであろう"天体を探し出すことも現代の天文学は行なっているようだ。

 では占星術は的外れか? 占いに当たり外れを問うことは不毛としてもそれでは科学化される以前に天体観測が国家事業だったことに説明がつかない。いつの時代、どのような国家であっても資源と時間は有限であり、為政者の迷信や趣味にしても費やせる全ては限りがある。だが文明と呼ばれるほど長く継続した国家ほど天体観測へ資源を、しかも継続的に投じていることが稀ではなく、むしろ天体観測をしなかった地域や国家を世界の歴史から探す方が困難とも思える。まるで天を見上げることが人類の必然であり義務かのように天体観測自体は現代も続いている。何が人間を宙へ執着させているのか?

 天体観測には実利的な側面がある。天体運行の周期性と季節変化の周期性を関連付ければ未来予知より高い精度で農業や航海に欠かせない情報を提供できる。暑い季節が始まる頃に必ず見える星、数ある天体にあってほぼ不動の位置にある星、化学による気象予報や機械的な位置測位が可能になる前まで天体は使おうと思えばいくらでも使えて摩耗しない資源といえる。つまり占星術は単なる占いだけでなくこれらの情報提供を行うことも含めた包括的な分野として機能していたことになる。ただ占星術にとって天体観測は道具的な意味が強い、つまり星を道具として使う術が占星術であり、何に対して星をどう使うか? が占星術の根源または本懐であろう。

 星を使う、何に使う、どう使う、何かが出力されたらどう解釈して、どう提供する。こう述べると天体自体は発端に過ぎず、その後にある工程の方が多いことがわかる。また順序を組み替えて「何かを知りたいから」という動機に始まることも多々あるだろう。つまり天体とその観測は何かしらの過程に存在するだけである。無論、他の工程と比較して観測それ自体の価値が低いということではない。観測しなければ占星術と天文学は成り立たない。ただ星ばかり見ているだけでは役目が務まらない、という話である。

 占星術の役目とは極論すれば関連付けといえる。天体と何かを関連付けて説明を提供するということは"関連付けを間違えれば"占星術それ自体が全くの役立たずになることを意味する。だからこそ天体観測の記録は正確かつ長期保存ができて可能な限り閲覧可能な状態が求められる。この側面でいえば占星術は情報工学の一分野ともいえるだろう。現在の情報を正しく記録して過去に記録された正しい情報を参照して比較することから出力された情報を、こう述べれば占星術は古き神秘というより現代科学的な営みに読み取れる。では占星術の神秘はどこにあるのか、神秘の位置自体は単純な場所にある。人間の意識だ。

 仮に身体の変化と天体の変化を関連付けて説明したとしよう。現代では身体の変化を説明する務めは医学に任されているが現代以前、それこそ古代ともなれば話は変わってくる。説明する側も説明される側も一貫して天体と身体の変化は関連付けされており一切の疑いなく真実として認識して扱っているとすればそこへ現代の医療を説明したところで介入の余地は無いだろう。前提知識の差異による占星術と現代医学の説得力の違い、確かにこれはある側面で正しい説明であり話が通じない要因として十分に作用するだろう。しかしもっと大きな要因として占星術が強い面がある。それは自転車の乗り方に似ている。乗れない時は全く乗れないが乗れてしまえばいつでも乗れる。これは道具の使い方が身体化された状態といえるがこの道具の位置が自転車ではなく占星術ならどうだろうか。自転車に乗れる人間はこうしないと自転車ごと自分が倒れるなどと思いながら乗りはしないように何か意図するとしてもどの道をどう走るかくらいであとは約束の時間に間に合うかとか、そのくらいしか意識を使っていない。これと同様に占星術が"意識的"身体化されていることが一般化された時代や地域ならばそこに住む人間たちは天体の変化を自己に関連付けされる、またはすると"その通りになる"のではないだろうか。これは筆者がその時代や地域を生きたならば断言できるがそうではないので憶測の域を出ないが少なくとも人間が何かを身体化している状態がどれだけ強固かつ再現性があるかはわかる。何故ならば何年も乗っていなかった自転車に乗れば乗れてしまうことを我が身が知っているのだから。

 現代においても医者よりシャーマンを頼る人々が形成する集団は存在する。外部の人間から何を言われようともシャーマンに頼ることに揺らぎは生じない。これも前述と同じくシャーマンによる説明や何かが彼らに意識的身体化されているからだと思う。

 関連付けの意識的身体化は占星術に限ったことではない。呪術や降霊術も関連付けを避けられない。これらの術に対象者の頭髪や名前、つまり対象者を特定するための媒介物が用いられることは多くの地域で見られる。媒介物とまじないを関連付ければ対象者に何かしらが作用し、媒介物と術を使う者が関連付けされれば死者の言葉を紡ぐ。前者が最大の効用を発揮する瞬間はそれの意識的身体化を有する対象者自身が自らにまじないが行使されたと知覚した瞬間であり、後者ならば術者と死者の言葉を求めた者の双方が遺された物と術者が関連づいており術者の口から死者が語ると意識的身体化されている。この術者と依頼者、対象者は全て関連付けが意識的身体化を有している。また意識的身体化が無い人間にとってこれらの術が無意味であり無価値であり、無効果であることも事実だ。

 神秘を起こす、または神秘自体の決定的な因子、その因子自体は千差万別種々あるとしてもそれを意識に有しているかしていないかは二極である。あれば真実、無ければ虚実。それだけであるがそれだけの事があまりに決定的であり易々と変化させられない事実である。

 では神秘を自転車の位置から転用したように別の物事に置き換えるとどうなるか。目の前の水は飲める、自分は寝ても起きる事ができる、自分は空を移動できない、当たり前だろう。その水は浄水されており、起床は日々の身体反応であり、万有引力が他の何かより圧倒的に多い質量へ自らを拘束している。ではこれらの説明はいつ何時どこでも通用するだろうか。もしも相手がこれらとは全く別の意識的身体化を有しており、その水を飲むと吐き出し、一度の眠りは死を意味して、道を歩くかのように空を移動する、そんな相手を前にして自己の意識的身体化は揺らぎはしないと断言できるだろうか? そして揺らいでしまった時、自己は何へ拠って立ち意識的身体化を再構築すれば良いのか。

 もしも自己が意識的身体化している全てを剥奪されたら、自己は果たして死ねるのだろうか。一般生物ならば避けられない死すら意識的身体化の一種だったと知覚してしまい、それを全く別の何かへ置き換えられたり剥奪されてしまったら、自己は何かであれるのか。これこそが神秘であり、これこそが根源の恐怖であろう。
 今日寝たとして次に起きる保証など"当たり前"以外に無い。

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