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価値と価値観

 健康不健康、善悪、美醜であっても肯定し続けていけば健康も善も美すら無限に広がり定義が曖昧になり際限が無くなる。どこかで不健康、悪、醜と拒否して境界を定めなければならない。境界定義が無い評価基準など評価の用を為さず、評価基準から本来的な意味を無くす。確かに肯定は争いを生じないが拒否することで境界を定め、その境界を変更する際には大いに争い、肯定することの意味と肯定される健康、善、美など定義の意味や価値を守らなければならない。ただ他を肯定し続けて自分の意味や価値を守らずに争いを避け続ける事など自分である事すら棄て去る行為である。自分とは価値と価値観の内在であり、毅然とした態度で自己の価値を主張して価値観に基づいた評価基準で物事を見なければ自分というものは失われる。

 境界があるから差異が生じて意味に価値が生まれる。そしてその価値を守るために定義されている価値の意味を説明主張して差異を強調し境界を敷く。この営みが自他を隔てる行為であり、自分と他人が異なる存在結果を生じさせる現象である。価値を手放すことは自分の放棄であり、他者との融合になる。この融合が共同体になり、どうしても手放せない価値を守るために共同体は崩れる。人間の営みに価値の奪い合いがある前提において戦争と平和は振り子の如く揺れ動く。平和を希求する事を善とするならばその善を手放さず守るために戦争をしなければならない。平和希求を善としても戦争をしなければその善という価値は他人と融合して共同体になるか奪われる。価値の融合や奪われることは自己の曖昧化であり消却でもある。平和希求と平和維持をしたいのならばその平和という価値や平和の意味を求め保持し続ける力を有しなければならない。自分の家に自分を置くか、他人の家に自分を置くか、家の所有者が誰であるかは自分の自由に関わる問題であり、自分を確固たるものにしなければ自由は行使できなくなる。自由とは自己意志の行使であり、その行使が妨げられることは不自由である。何をしたい、とはつまり自己自分が明確である人物から必然的に生じる要求である。自己自分が曖昧になると何をしたいという欲求は自分に内在される価値と価値観が曖昧になるため生じなくなる。人間は欲しいと求める行為にすら自分が必要なのだ。欲しいと、何をしたいという欲求は自分の価値と価値観の表れである。価値と価値観が無いまたは希薄であるとは他者の価値と価値観に従っている状態であり、この状態において自己自分は他者の自己自分に従っている。この状態は自由に対しての不自由ではなく、他者への隷属状態である。不自由とは自由を行使できない状態であるため、自己自分に価値と価値観が内在されているから自由を行使しようとして不自由に衝突して不自由に対して妥協するか、争うかになる。だが隷属することは自己自分の価値と価値観の破却である。奴隷状態とは不自由な状態ではなく、自己自分の価値と価値観が存在しない状態を意味する。

 ここにおいて自己自分を有する人間と自己自分を有しない人間に明確な境界が敷かれ、絶対的な差異が生じる。自己自分が存在する人間は能動的になり、自己自分が存在しない人間は受動的になる。自己自分を示す例とは拒否であり、拒否すれば必要な争いになる。拒否をする以上はどんなに希薄微量であっても自己自分に価値と価値観が存在している。その価値と価値観を守ろうとする行為とは欲求や拒否であり、その先にある獲得または争いである。

 価値と価値観はどのように自己自分から失われていくのか。それは他者が自らの価値と価値観に基づいた行為を自分へ向けてきた際である。他者に行為された時に自己自分の価値と価値観はその行為を肯定するか否定するかによって他者に晒される。

 人間の行為とは意図的にせよ無意図的にせよ、自己自分の価値と価値観を根拠に生じている。そして行為とは求める時でも与える時であっても、奪うことや拒否することでもこの価値と価値観を根拠とする行為の域を出ない。行為される、行為するとは自他の衝突である。この衝突に際して他者からの行為を肯定するか、否定するかをまた自分も行為しなければ自己自分の価値と価値観は発揮されず、その意味を失い、自分は不自由状態ではなく他者への隷属状態になる。自由だから行為する、自由だから行為される、という自由に基づいた平等はこうして確保されている。自由を行為できない不自由であってもまず自由から行為が生じているので自由とは状態であり、不自由とは結果である。人間が根本的に分かれる現象とは自由と不自由によって起こされるのではなく、自己自分の価値と価値観があり、これを根拠にして行為や意思を行使できる自由状態と自己自分の価値と価値観が無く行為や意志を行使する根拠がない隷属状態が同一の場所に存在した際に不平等現象が発生する。

 人間は自己自分の価値と価値観を根拠にした行為を全て行使できないから不自由状態であるが少なくとも根拠を持っているため行為を行使できるのでこの点において自由ではある。自由であり不自由状態である、行使できない状態が苦しいのならばその人間は不幸である。反対に自己自分の価値と価値観を持たず根拠ある行為を行使しない人間は行使しないがために不自由になる事はなく、他人によって行使を命じられても自己自分の価値と価値観がないため、他人の価値と価値観を根拠にして行使するので仮に行使ができなくても他人の価値と価値観が行使できないだけであり命じられた人間はなんら苦しむことはない。苦しみがないのならばそれは幸福であろう。不幸な主人と幸福な奴隷は以上によって生じている。

 自己自分の価値と価値観を守るために他者を拒絶し行為を拒否し根拠を否定する事は正当な自己防衛である。

 他人の行為に対して自分が行為するとお互いの行為からそれぞれの価値と価値観が推定されて比較が起きる。そして比較結果は出るが結果を主観、つまりまた自分の価値と価値観によって判断して喜怒哀楽一喜一憂する。比較して結果が生じている以上、自分と他人は明確に異なり同一ではない。よって、人類完全平等や共同体統一是を人間関係へ持ち込むことは明らかに無理である。世にいう「押し付け」とは自他の差異を無視して現実と乖離した行為を自らの価値と価値化に基づいて行使することである。仮に押し付けが成功するならば押し付けた相手は抵抗する価値と価値観を持たない隷属状態であり、この点においても平等ではない。政治の場において「男女平等」といった思想が出てくるが男女という生まれた姿の結果については両者確定して所有しており、この点は姿の所有によって既に平等である。そしてその生まれた姿形の差異に起因する価値と価値観がそれぞれの人間に個別として備わっている。そして個別であるから根拠も異なり行為も異なる。それぞれの自由状態の人間は自由だからこそ行為して成功失敗の結果が出て失敗の場合に不自由状態になる。問題にすべきは人間が行為の失敗から不自由状態になる事ではない。行為の失敗とは本人の意図実現能力が不足だったり行為する環境や条件が行為によって望む結果を生じさせない事によって起きる。この場合であるならば本人能力の向上や補助を行うか、環境や条件の変更を行えば行為は成功して不自由状態にはならない。平等を望むならばまず行為をしない隷属状態の人間の価値と価値観を発達させて他者がこれを認める事が必要ある。隷属状態の人間は自己自分に内在する価値と価値観の発達に加えて他者からの承認によって隷属状態の人間は隷属から解放されて自由になる。なぜ他者からの承認が必要であるのか。他者から承認されるとは他者への隷属ではないのか。ここで述べる承認とは肯定であり否定でもある。人間が自己自分に価値と価値観を宿した時、それは行為を生む。そしてその行為は他者から観測されることで自他の衝突、肯定か否定を生じさせてここで定義する承認となる。そして自由になってからは行為が行われて、生じた結果について法律による責任が生じる。隷属状態の人間が行った行為は他人の価値と価値観を根拠にした命令実行であり、その結果責任を負うべきは命令した他人である。男女の差異は厳然と存在しており、問題行為の原因を男性であるから女性であるからとして姿形そのものを否定したり拒否する事は問題行為の抑止や防止、まして解決に効果的ではない。むしろ仮に原因が人間の身体性差にあるとするならばその身体性差を承認しなければその先にある行為と結果を認知して処理する事ができない。手術等で肉体を変更するとしてもその行為はその人間の価値と価値化を根拠にした行為である。生誕時に身体性差があり、そのから価値と価値観が発達して自己の身体性差をどうするかはその当人の自由である。肉体性差を変更したいという事は行為の根拠である価値と価値観がその人間に存在しており、行為しようとする自由がある。自由があるという事は行為した結果に責任があるという事であり、国の法規に反すればその責任によって裁判を受けて裁定により処罰される。また法規は変更可能な規定であるため、必要に応じて変更する事ができる点を踏まえれば自由を有する人間の行為とその結果について処罰対象にせず集団は許容する事ができる。法規の処罰対象ではない結果について自由である人々が処罰することは法治主義集団がすることではなく、人治主義集団がする行為である。法治主義集団である国家において人治主義的行為は法治主義の手続きを経ない個人への侵害行為であり、多くは違法である。

 国家が法治主義集団である以上は何人にも法律によって規定された裁判による判断を受ける必要と権利がある。身体性差という生まれの結果については法治主義集団内で機能する現行法規では処罰対象ではない以上、法治主義国家においてはこれを処罰しない。以上の事から肉体性差という結果は罪ではない。個人が有する身体性差という結果が罪であると個人が主張する自由は存在するが処罰する事は法治主義において違法であり、できない。この点を不自由として処罰を求めるならば法治主義集団において法律に規定された手段によって法律改正を行う必要がある。罪でない結果を罪だと主張することは個人の自由であり勝手であるがその結果を有する個人へ私的処罰を行うことは罪でない結果を罰しようとした点と裁判による法律判断を行なっていない点において法治主義国家内における行為とは言えず、これを行為して結果が出た場合はその結果に責任が生じて裁判を経て違法と判決されればその行為は罪であり処罰される。肉体性差に限らず先天的な肉体や精神の差異についてもその差異を有する個人が自己自分の価値と価値化を根拠として自由に基づき行為して先天的差異を結果したのではない以上、先天的差異について責任を追求する事はできない。また事故、病気、その他の不具合等も明瞭に自己自分の価値と価値化を根拠とする行為の結果である部分においてのみ個人の責任があり、それ以外について責任はない。また責任があると認められる結果であっても裁判による審理を経て法律に違反しなければ処罰されない。処罰は実定法が存在する法治主義国家では法律条文に規定された内容のみが行われるのみであり、それ以上も以下もなく罪刑法定主義と法治主義によって固く処罰は制限されている。

 上記について、知らなければ考える事も認知することも、まして価値や価値観を形成発達させることもできない。少なくとも知っており考えており認知している人間の価値や価値観とは異なるため各人その言行行為は異なり認識の一致へ至るには関係当事者すべてが一定水準の前提や知識を知り、認知して、考えて、各位の価値と価値観を発達形成する必要がある。この作業を行わず異なる価値と価値観に基づいて人間が相互に行為し合えば「押し付け」や「自己防衛」の必要が生じて争い状態になる。

 付随して述べるならば個人がどこの地域や国家に生まれようとも上記の理由と論によりその責任はなく、処罰はできない。仮に生まれを違法とするならば生まれる個人の責任を明確にする必要があり、個人の生誕について生誕する当人による自己自分の価値と価値観を根拠した行為があったと証明する事が必要になる。これを証明できなければ次の結果に対する責任について論ずる事ができない。責任が論じられないのならばその結果を罪として法律定義することはできない。よって処罰することもまた不可能である。

 他人を嫌う自由はあり違法ではないが嫌う事を根拠として暴行または誹謗中傷などを行為することは行為し結果したので結果である暴行や誹謗中傷が罪として法律に規定されているので違法であり処罰される。

 差別問題においても個人が差別感情や偏見を持ち行為せず内在させているのみならば行為はされず結果が生じていないので責任は無く処罰もされない。しかし、差別行為や偏見行為をした場合は結果が生じるので責任があり、法律と照合する裁判を経て処罰または無罪となる。また差別や偏見をどう定義するかやどこまでを個人の責任とするかは常に議論されて変化している価値と価値観であるため、いついかなる差別や偏見が発生しても不思議は無く、また常に変化しているため法律定義もそれぞれの個人が有する差別や偏見と合致しない。よって、実態実情に沿った法律による個人の価値と価値観の保護も能動的に作用できない。この点には個人による差別や偏見を根拠とした行為と結果が発生しやすい環境と条件が発生しており、個人の自己自分である価値と価値観が脅かされる問題がある。個人から差別や偏見を消滅させることができない点、自分がいかなる行為を行使して結果として相手を不快にさせるか不明な点、差別や偏見が常に変化変動している点において「人間は他者と関わる以上は差別と偏見に晒されて、または差別と偏見を行為して不快になるか不快にするかの危険性が常に一定以上存在している」と判断されるため、自分が関わる人間を無闇矢鱈に増やさず差別や偏見に合う確率を上げないよう自己努力するしか有効な手立てが無いのが現状である。

 人間は自己自分の価値と価値観が脅かされて不快を感じた際に不快を根拠として防衛行動を行使する。この防衛行動を行使された場合は相手を不快にした結果の事実について謝罪する事ができる。この謝罪を受け入れて防衛行動を止めるか、防衛行動として相手から離脱するかは不快を受けた側の自由である。ただし不快にされた事実について謝罪を受け、その不快を発生させた行為の根拠となっている価値と価値観を問題として提起する際はこの問題提起行動によって相手の価値と価値観を脅かすので少ながらず防衛行動を行使される事もある。この防衛行動もまた自由であり、自由である人間同士が自己自分の価値と価値化について防衛行動を行使し合えば現場を離脱するか紛争にしかならない。

 対人コミュニュケーションにおける問題発生は上記の機序によって起こる。もしこうした問題発生を起こしたくなければ個人の価値と価値観についての言及や行為は極力避ける必要がある。例えそれが差別や偏見であり、何かしらの社会正義に反する価値や価値観であっても相手がその社会正義を有していない以上はその反する価値や価値観を指摘することはその社会正義を有する個人からその社会正義を有しない個人への「押し付け」であり、相手の価値と価値観への侵害行為と結果になる場合がある。何かしらが不快であり、可能であるならば指摘するより現場から離脱する事が無用の争いを避ける事と対人関係友好の維持、そして争いにかかる時間や労力を支払わずに済むことに繋がる。

 なぜ「思った事を言ってはならないのか?」については以上の如く理由を説明する。「余計な事を言うな」の『余計な事』とは相手の価値や価値観に関わる事柄であり、ここが推測できていなかったり明らかでない段階において相手の価値や価値観に関わりそうな事を自分の価値や価値観に基づいた思慮や感覚を言葉で相手に対して言い伝える事は非常に危険である。

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