準備運動と助走のタイミング
生活するにも作品を作るのにも助走のタイミングがあるはず。それ以前に準備運動か。
私の場合は準備運動をせずに助走から始めてしまって身体の節々を痛めてしまい、助走というよりかは歩きながら色んなところを彷徨っている感じは否めないが。
準備運動をせずに走ってしまったからか、走りながらストレッチをしているのが現状なのだけれども、一度立ち止まって準備運動をしたいなと思う事が増えてきた。歩きに等しい速さで走りながら筋トレするのが少ししんどいというか、一回、生活と制作を見つめ直す事が必要なのではないのだろうかと。
現時点での私の作品はエゴイストで他者を振り回していることを肯定することで自分自身を正当化している訳だ。写真そのものがエゴイズムだ!といえばそうなのだが、自分自身の生活に対しても言い訳をしている気がしてならない。
制作で他者を振り回す、利用することはよくないことだとは思うけれども私自身がやりたいことであるからそこは許してほしい。
しかし、生活で振り回すことは肯定してはいけない気がする。一応人間としての良心は持っているはずだ。
作品で必要なエゴイズムと生活は分けて考えたい。作家として成功できれば生活なんてどうでもいいと思っている自分もどこかにいるのも事実だが、利用できる人間がいなくなっては作品は成り立たない。というか、普段の状態があまり健康的ではないのに生活が破綻すると本当に作品どころではなくなってしまう。
かれこれ一年近く現状の生活に迷っているが、どちらの方向にも踏み出せない。他者を巻き込む大きな変化が怖い。だけどこのまま放置するのもよくないよなと。「むしったまま」放置するとどんどん枯れていくし、閉鎖的な環境に置いた状態のままだと光合成もできない。
元々あるべきところにあった場所に植えるのが最適解なのか私の庭に植え込むのがいいのか。
私の庭に植えても最終的に野に放つのも簡単に想像がつく。サクッと放ちそうなのが怖い。
なんというか、単に責任を持てないだけなのだろう。情けない話である。こう書いていくと本当に作品で自己正当化して守っているのだなと感じる。他者を取り込むのではなく、焼き畑になるくらい向き合って話し合う必要があるよなと。他者と向き合うことが自分には欠如しているのではないか。
流動的であるべきなのに、生活が止まっていては何もかも進まないはず。どうなるかはわからないけれども、少しでもいい方向に向かうといいなと願いつつ。
結局何を書こうか迷っているよな………