本能的な欲望と制作。
自分の作品がなんとも男性的だと気付いて吐き気がした。「丁寧な草むしり」では他人を自分のフィールドに落とし込んで植え付けるわけなのだが、それって性行為における男性の行動そのものと繋がるような気がする。他者の思想を奪い、私の思想を押し込んで植える。そして植えられた人間が各々庭を作り上げる。つまり、種を撒くわけだ。書いていて既に吐き気がするのだが、無理やり"性行為に持ち込む=犯しました"と宣言しているみたいだ。
自分の作品を性別でカテゴライズするのもどうなのかとも思うけれどこれは本当に自覚しておかないといけない気がする。
女性の宗教指導者が少ない事にも繋がるように思う。なぜ多くの宗教指導者が男性なのか。
多分、支配欲を満たすってのもあるのかなと感じる。肉体を支配するだけでは満足せずに精神的に依存させて支配させたいのだろうなと。オウム真理教の左道タントライニシエーションとかはまさに肉体も精神も支配してると言える。
というか写真行為自体が奪って植え込む行為なのでそのあたりのしがらみからは逃れられないのか。カメラの構造が男性器的って見え方もあるだろう。自分の快楽を満たす為に世界を奪う。写真が撮り手の欲望と密接なのにも納得がいく。欲望を満たす為にもっともらしいことを言って正当化する。
2023.1.20 辻悠斗