最近読んでいる本と作品について
写真の扱い方について年明けあたりから考えているのだけれども、なんとなく方向性が見えてきたような気がする。フルッサーの「写真の哲学のために」が効果的だった。これまで私の思考が写真サイドだったのも原因であるのだが、とにかく写真の枠の中で何かをしようとのたうち回っていた。
今の今になって考えると写真の枠で何かをしようとしている人間が「辞書」の制作であの本自体が写真装置であると認めている(crevasseにほとんど働いてもらったのに私が撮影したから作者は私であると言い切っている)つまり、無意識のうちに写真装置の方向、写真を使う作品にシフトしているのに、まだレンズベースで、作家だけで完結させる制作を考えていたのがモヤモヤの原因だったのではないか。単にものを知らないが故に詰まっていたというのが正解か。
そもそも写真が作家のエゴであるのならば制作自体がエゴであってもいいはずだ。私は指示だけ出してあとは他の人に働いてもらう。そもそも写真はそこから考えるべきなのではないだろうか。大半の写真作家はカメラを作ろうとまでならないはずだ。今はニエプスが存在していた時代とは違う。
最近はずっと「草むしり/庭」を中心に考えているのだが、そのベースになっているのはSNSやネットワークを介した見えない他者との繋がりだ。庭づくりには庭師や庭の主人が必要になってくるし、配置された草木はゆっくりと変化していく。そこから考えると複数の人間の存在と流動性が重要なのではないかと。今読んでいるケヴィン・ケリーの「<インターネット>の次に来るもの」のflowingの章に書いてあった流動性の話に共感した。作家の手で完結する作品は変化の要素は持っているが自己の範疇でディレクションし、作品を最終決定させることができる。これではスタンドアロンに近いように感じる。
他者の手を介し作品を構築し、作家自身の想定を超えるものが出来上がり、作品がアップデートされていく。これこそが私のやりたいことではないのだろうか。「丁寧な草むしり」の時にむしった人間を最終的に野に放つことを考えていた。それは私の信者みたいな人間を作ってから私自身の思想を拡散させる為に社会に放つ事だと考えていたが、もしかすると私は決定権を持ったハブみたい存在になりたいからだと。P2Pでもいいのだけれどもそれだと責任の所在が分裂してしまう可能性がある。ある意味、私を通す=フィルタリングさせることで自分の作品に仕上げようとしているように見える。
作家自身の手を離れ、拡散されたむしられた人間たちが自立した時に、丁寧な草むしりはネットワーク化したと言えるのだろう。
2023.5.1 辻悠斗