注視と認識
やっぱり写真には希望も世界を変える力もなくて自己の思想と世界を接続する動機でしかない。そもそも撮った時点で写真になるはずもない。思考が伴わないとただの画像。
世界を注視、あるいは凝視するきっかけに過ぎない。撮って喜んでいることは凝視して満足していることも言える。問題は世界を認識できるかどうかじゃないか?認識こそが写真が写真である必然なのかと思う。
写真が自立できないのはメディウムとしての強度の無さではなく、私自身の思考の浅はかさなのだろう。第一言語としてテキストを書くことで思想を抽出し、第二言語、外界との接続点として写真を扱えるようにならないとならない。いわば写真は世界、社会とのハブとして成立するはず。SNSが世界と接続できるように写真は自己と世界を接続させる。
現実の複製にすぎない写真を扱う理由は複製された世界が現実に作用する可能性を秘めているからではないか?写っているものは自身のもう一つの言語になる。第一言語で整理できていないのに第二言語を覚えるのは無謀だろう。
世界、社会に画像と自身の思想を接続した時に写真は写真になりうる。
2023.3.28 辻悠斗