見出し画像

親父のお話


こんにちは!晴太郎(はるたろう)です!


今日は僕の親父の話をします。


ちょっぴり重い話になるかもしれませんので、あらかじめ言っておきます。ご容赦ください。


早速始めていきます。


僕の親父は、今は生きていません。僕が高校3年生になったばかりの頃、そう、丁度この時期に他界しました。死因は自殺です。もう重いですね。僕も当時を思い出しながら書いています。

なぜこの話をするのか。一つは親父との日々があって今の僕があること。もう一つは、同じ境遇にある人や、精神的なものに悩んでいる人を救いたいと思っているからです。


僕の親父は、僕が小学校6年生の時にうつ病を発症しました。原因は職場環境でした。親父は異動のある職についていたので、僕が小さい頃は単身赴任で仕事をしている時期もありました。当時は、土曜日に帰ってきている親父の背中がものすごく大きく感じて、そしてなんだかものすごい遠くの存在に感じていました。


それから何度か転勤があり、僕が小学校5年生の時くらいかな、実家から2時間はかかる職場に毎日通っていました。往復4時間という移動時間と、職場環境が原因だったと聞いています。しかし、それ以上のことは分かりません。親父は、職場の話や愚痴は僕達子どもの前では絶対にしませんでした。


そんな父親がうつ病を発症し、それから親父が家にいる生活が始まりました。最初母親からそのことを聞いた時は、何の知識もなく、心の病気ということと、大体5年くらいで治るということしか知りませんでした。


正直、親父といる時間が増えて嬉しいと思いましたし、普段の親父は何の変化もないくらい元気でした。親父は必ず僕たち子どもには、きつい姿を見せませんでしたし、僕たち家族のことが大好きだったから、いつも家族の大黒柱として堂々と、そして家族が幸せに暮らせるよう頑張っていたんだと思います。


なんだか思い出したらきつくなってきました。


でも、書いていきます。向き合うこと、受け入れることから逃げてはいけません。受け入れることはできてますが、こんなに浸るのは初めてな気がします。こうやって書いていると、色々なことが頭に浮かんできて、言葉にしようとすると手が止まります。おそらく今僕は、当時の感情、出来事、自分の親父に対する思いに浸らなければならないんだと思います。


なぜなら、書く前はこうなるとは思わなかったからです。いつも通りすらすらと書けると思っていました。でも、なぜか手が止まります。顔が上がります。だから、浸りながら書いていきます。もしかしたら、いつもよりも読みにくい文章かもしれません。許してください。今日は誰よりも僕のために書いていきます。なんだか試練を前にしたような気持ちです。これから進む道は険しい道だとわかっていても進まなければならないときの気持ちです。こういう時は覚悟と勇気が必要ですね。大丈夫です。書いていきましょう。



どこまで話したかな。発症した時の話でしたね。僕は親父の病気がいつかは治ると思っていたんですが、なかなか治りませんでした。むしろ、悪化していったのでしょう。


原因はこれというものはないんだと思います。親父のことですから、働きたくても働けない自分が、時間がたつごとに嫌になっていったのかもしれません。なぜなら、うつ病には調子の波のようなものがあるのですが、精神の浮き沈みですかね、それが春に決まって大きな沈みが来るんです。普段の浮き沈みでも、「普通」の浮き沈みとは比較できません。それが春は一番大きかったですね。お金がかかる時期だからでしょう。僕の家族は5人家族で、僕が長男、下に弟、妹がいます。僕は子どもがいるわけではないので分かりませんが、三人を育てるとなると、だいぶお金がかかったのではないでしょうか。休職手当も出ていたみたいですが、なんかそれもよく分かりません。とりあえず、波があったということです。



そして僕は中学、高校となると、反抗期が訪れました。めちゃくちゃ反抗してました。自分なりに自我が育って固まってきて、親父のことをあまり好きではない時期もありました。ずっと家にいる、という事実、他と違う、という認識、この複雑な心境もあり、僕は親父と何度も喧嘩しました。


絶対に親父みたいにはならない。そう思っていました。


そんな日、ある出来事が起こりました。その日も喧嘩してたのかな、あまり覚えてませんが、確か春だったと思います。あ、ごめんなさい、きついこと書くので、無理しないでくださいね。



それは突然でした。親父が泡をふいて痙攣を始めたんです。なんでかは分かりません。すごく怖かったです。今も怖いです。思い出すと書く手が止まります。心配していると、親父が、手を握ってくれと、こっちに、近くに来てくれというんです。本当に怖いです。でも傍にいないとダメな気がして、家族でひたすら傍に寄り添っていました。親父がその時何と言ったかは分かりません。覚えてないんです。でも、その手の感触、その時感じたことはものすごく覚えています。「親父はきついんだ。」「見えない病気と闘っているんだ。」そう思いました。今初めて、その時の気持ちを言語化できました。



それから、なんとなく親父に対する思いは変わっていったように感じます。相変わらず反抗期でフラフラしていたので喧嘩することは多かったですが、心の底では、親父は病気と闘いながら、それでも子どもには心配させないようにする本当に格好よくて優しい親父だと、思っていました。

うん。なんだか、今まで、もやっとしてて言語化できてなかった感情が言語化できています。その分きついですが、すこしずつすっきりしてきました。



そんな感じで、波がありながらも、入院したり、職場復帰したりと、少しずつ前に進んでいたように思っていました。しかし、職場復帰しても、ダメだったんです。なぜかは分かりません。聞いたような気がするけど、確信が持てないので書きません。なので親父は在宅での仕事を探してました。前向きに、何か仕事をやろうと、ひたすらもがいていました。


そんな日々が続いた高校三年の春です。


僕は、友人を何人か家に招き、お泊り会をしてました。これはたまにある日常でした。僕の家はよく溜まり場になってました。その日、母親と弟は部活の祝勝会で留守にしてました。妹は僕の友人と遊んでます。そんな時、下の階で大きな物音が聞こえました。僕の家は一軒家なので、確実に親父だとすぐにわかりました。すぐさま様子を見に行くと、親父が泥酔して、風呂場で手首を切っていました。僕は怖くなって、でも、そのままはいけないと、すぐに親父を居間に連れていき、ひたすら引き留めていました。



親父は死のうとしていました。僕は必死で抑え、親父を抱きしめながら、ずっと説得していました。親父と迎えたい未来、これからの未来。。しかし、何も聞こえていませんでした。「もう、どうでもいい、楽にさせてくれ。」それが親父が言っていた言葉でした。



これは本当にまずいと思って、すぐさま母親に電話しました。母親が帰ってきて、親父はすぐに大人しくなりました。親父は母親のことが大好きだったので、母親が来ると、安心でした。二人は外でずっと話していました。


次の日、母親は仕事、春休みだった僕と弟は部活へ、妹は確か親戚の家に預けてたのかな。そうなると家に親父一人になって危険なため、父方の爺ちゃんが駆け付けました。安心して僕は部活へ行きました。部活終わりに自主練をしていると、顧問が駆け付け、すぐに帰れと言います。僕はすぐに察し、最悪を覚悟しました。



急いで家に帰ると、二台のパトカーがいます。最悪の状況でした。それからのことはあまり覚えてません。たしか、弟か爺ちゃんが状況を教えてくれて、警察が家の中にいて、なんか話を聞かれたような気がします。頭がぼーっとしてました。何を話したかもあまり思い出せません。あ、母親に詳細を聞いた気がします。

風呂場で煉炭を焚いて、泥酔して風呂場で自殺しようとしたそうです。それから何分後か分かりませんが、弟が帰ってきて、煙の臭いに気付いたそうです。風呂場に行くと、親父が倒れていたそうです。


爺ちゃんは、親父が朝、とても元気で明るかったから、安心して庭の手入れをしていたそうです。爺ちゃんは悪くありません。誰でも分からないと思います。


煉炭を買ったレシートも見つかりました。前もって買っていたそうです。本当に楽になりたかったんだと思います。



病院ではICUに入れられました。その日、病院で、母親が僕を呼びました。お医者さんから話があるから、晴太郎だけ来て、と。行くと、お医者さんから状況を説明されました。

「脳はすでに機能しなくなっているが、心臓はまだ動いている。だが、このままにすると止まる。今から治療をすれば、意識は回復しないが生きることはできる。決めてください。」

つまり、治療をしなければ数分後に亡くなるが、治療をすれば、植物人間として延命できるということです。


母親は言いました。「晴太郎が決めて。お母さんは、お父さんのことが大好きだから、判断できない。」と。


少し考えましたが、すぐに決まりました。治療はいらないですと言いました。

「お父さんは楽になりたいって言ってた。もう十分がんばったよ。ここで治療をしても、それはお父さんが望んでいることじゃない。俺たちの自己満足になる。だから、最後はお父さんの気持ちを尊重しよう。」

母親は、僕の言葉を聞いて、そうだよね、と、そうしようと言いました。それからほんとに数分後、家族全員がいる中で、親父は息を引き取りました。

当時8歳だった妹も、状況が分かったのでしょう。ものすごく泣いていました。



それからお通夜と葬式がありました。気が張ってて疲れた覚えがあります。親父の火葬前の顔は、どこか笑顔だった気がします。笑ってる、とつぶやくと、みんなが同意しました。なんだか嬉しかったです。本当にそういうことってあるんだと思います。


その次の日かな、夜中に目が覚めました。見ると、親父がいました。立っているのか座っているのかわからない、なんだか微妙な高さの場所に親父がいました。その顔は笑っていました。ありがとうと言われた気がしました。これが、夢か現実かは分かりません。でも、確かにありがとう、と、幸せそうな笑顔で言われました。


本当に良かった。自分の選択は間違っていなかった。そう思えることができました。



僕は親父みたいな親父になりたいと思っています。でも、親父は少し自分を犠牲にしすぎたんじゃないかとも思います。優しすぎたんです。だから、僕は、自分を含めた、自分の大切な人のために生きる。と決めています。



これが僕の親父の話です。


長くなりました、ごめんなさい。ここまで読んでくれて、本当にありがとう。



僕は、うつ病を含めた、精神病と闘っている人も救いたいと考えています。心の病気、病みは見えないからこそ、怖いものです。


そして、人は本当に突然亡くなります。


心は、いとも簡単にそれに追い込みます。


僕に何ができるかは分かりません。コーチングという選択が、心の病気の解決に直接つながっているかも、まだ判断できないです。ですが、目には見えない心というものを扱う仕事にいること、それが僕の使命に感じるんです。また、コーチングだからこそ、いろんな人を救えるのではないかと考えています。


晴太郎と話して、気が楽になった。晴太郎と話して、張り詰めていた糸が緩くなった。晴太郎と話して、人生に希望が持てた。などなど、僕と話すことで、少しでも人生が良くなってほしいし、話してよかったと思われたいんです。


僕の親父は、僕が「頑張る」と言うと、「ぼちぼちでよか、ぼちぼちやれ」と言ってました。


今ならわかる気がします。自分が本当にきつくなるまで頑張る必要はない。ぼちぼちでいいから、少しずつでいいから、それくらいの気持ちで頑張りなさい。ということだと思います。


ぼちぼちいきましょう。少しずつ前に進んでいきましょう。きつくなったら休んでください。無理しないでください。誰かに助けを求めてください。


これが僕の言いたかったことです。どうしても張り詰めて余裕がなくなってる人、本当に、ぼちぼちでいいですよ、ぼちぼちいきましょう。


ではまた。



僕と話してみたい人、直接やり取りしてみたい人
公式ライン追加してみてください!
https://lin.ee/eFCLZvI




インスタはこちら



いいなと思ったら応援しよう!