紫陽花の頃に

……泣いている女の子を見ていると、急に胸を締めつけられるような思いがした。酌り上げるでもなく、雨の日の紫陽花のようにしとしと泣く少女が愛しかった。
 裏山の急勾配の獣道を抜けると不意に拓ける空間――地元の子供達のいわゆる秘密の遊び場――で、少女を泣かせている少年が、太い棒きれで苛立たしげに地面を抉りながら、頻りに“お前もやれよ”と僕に命令している。丁度、太陽は雲に隠れてしまった。僕は小さな拳を力一杯握り締めた。
 俯いたまま、僕は少女の方に目線を投げた。少女は膝を擦り剥いていて、真っ赤な血が滲み出していた。“お前もやれよ。そいつ気味悪いだろ”と、少年は持っていた棒切れを僕の足元に放った。しかし、それでもじっと動かない僕を見かねて、“臆病者、臆病者!”と囃し立てるように続けた。
 僕は足元の棒切れを拾い、ぐっと力を込めて握ると、顔を起こした。髪の切れ目から、満足げに腕組みをする少年が見える。腕を振り上げると、絶叫しながら、少女ではなく少年に躍りかかった。正面打ちの格好で棒切れを脳天に叩き付け、よろける少年の頬面を殴り飛ばした。尻餅をついた少年の顔は唇が切れて青ざめ、その目は死神でも見たかのように見開かれていた。僕は振り上げた足を、両腕で必死に顔面を庇おうとする少年に容赦なく振り下ろした。
 僕が少女に手を差し伸べようとした時、下方から断末魔と呼ぶには些か女々しい悲鳴が聞こえた。僕が足蹴にした衝撃で背後に吹き飛び、そのまま獣道を滑落していった少年は、最終的に突き当たりの巨石に頭を打ち付けてその動きを止めたようだった。勾配の上からでも、巨石のまわりがみるみるうちに赤く染まっていくのが見えた。その時、不意に降り出した強い雨が、夥しい血潮を隠しでもするかのように流し去っていった。
 幾許か経った頃、僕と少女は雨で柔らかくなった地面を深く掘り、その穴に少年を横たわらせた。頭部をぱっくり割った泥まみれの少年は、威厳を含んだ面持ちをしている。彼らは従順な動物のようで、もはや少女を傷つけはしない、僕に罵声を浴びせはしない。あらゆる悪徳から解放されて、我欲を失った彼らは何と神々しいことだろう――。
 明日、ここに紫陽花の種を撒こう。いつか僕達が大人になって、今年は何色に咲いたのかしらんとその花の色を探しながら、傘を片手にここを訪ねても、少年は再び起きはしないだろう。しとしと泣く愛らしい少女のように濡れている紫陽花が見えるようだ。

 

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