暗狭の小路(断片、改)

 二人の乗った汽車は、山深い高地をよじ登ったり、深い渓谷に沿って走ったり、そうかと思えば不意に開けた平地を心地良く横切ったり、高い空の下をハイキングでもするように愉しげに進んだ。
 車窓から注ぐ、春先の日差しはまだ弱々しかった。私は上着を窮屈なくらい押しつけて――それは寒さを防ぐというよりは幸福を閉じ込めておくかのような仕種だった――お前と肩が触れあうくらい寄り添って座席に腰掛けていた。
 お前は少し縮こまりながら、変化に富んだ窓外の景色に熱心に視線をさ迷わせていたが、その視線は最後に私に行き着いた。私はそれを待ち侘びていたかのように「そんなにこの景色が気に入ったのかい?」と、微笑みつつお前に訊いた。
 お前は「そうなの」とだけ答えると、また元のように、そうして今度はさっきよりも強いくらいに窓外の景色に見入っていった。……
 ゆっくりと流れて行く田園の風景は、美しい緑の織物のように見えた。時折現れる鮮やかな花の色彩がアクセントになって織物に深い余韻を与えていた。
 嘗て朝に晩にと、見飽きるほどに見てきたこの風景。それが故に、私自身でさえ忘れていた過去の様々な記憶を連れ戻し、蘇らせ、反芻させた。過去の記憶は、現に今私が見ている風景と重なり、再び鮮明な色彩を取り戻していくようだった。こんこんと溢れ出てくる過去は、幾重にも折り重なって、未来へと続く微かな道しるべを紡ぐかのようだった。
 ふと、お前の視線が私に集まり出しているのを感じた。
「そんなにこの景色が気に入ったの?」
 先程の私の言葉を真似て、お前は悪戯っぽく言った。
「ああ。何の変哲もない田舎の風景だけれど、俺には特別なんだよ」
「どうして?」
「昔、俺は毎日のようにこの電車に乗って、この景色を眺めたんだよ。その時はまだお前はいなくて、一人で窓際に立って、そうして恋人でも見つめるみたいに、ずっと窓の外を流れる風景を眺めたんだよ。まだほんの数年しか経っていないっていうのに、随分昔のことみたいに霞んじまってるなあ……」
「なんだか、淋しそう」
「そうだね。きっと、俺はひどく淋しかったんだろうね。見つめる景色の美しさが却って悲劇のように俺の心を鋭く刺したっけ。でも今、俺はお前とこの風景を眺められて、もう、少しも淋しくはないよ」
「わたしも一緒に見られてとっても嬉しい」
「ああ、俺も――」
 轟音が私の囁いた言葉の余韻を掻き消した。汽車の中が、闇に吸い込まれたように急に暗くなった。――この長いトンネルを抜ければ旅の目的地、私の故郷はもう直ぐそこだ。


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