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適当に音楽を語る

昔懐かしボーカロイド。2012年ってもう10年前じゃねぇか!

10年前、まだ中学1年生だった僕はオタクの道に入りかけていた。まだボカロがオタクの間の密やかな趣味に過ぎなかった時代。米津が米津玄師として表舞台に立つ前の頃、「ボカロを聴いてる」ことは誰にも知られたくない恥ずかしいことだった。

そんな中でボカロの世界に魅せられてた少年少女は「悪ノ娘」や「千本桜」のノベライズを傍らに、インターネットの海に旅に出る…。世はまさに(ry

頭のてっぺんからつま先までオタクであることを自他共に認める筆者だが、実のところ、当時流行っていたボーカロイドにはあまり親しんでいなかった。むしろその頃にはMr.Childrenの『深海』とか『DISCOVERY』あたりの病み曲にドハマりしていて、そっちの方向で厨二病まっしぐらだった。見えない敵にマシンガンをぶっ放していた。

そんな中で僕が唯一買ったボカロのアルバムが、こちら『刹那プラス』が収録されているみきとP『僕は初音ミクとキスをした』。タイトルは勿論のこと、ジャケットも(オタク以外の)度肝を抜くスタイル。当時それがはっきりしていたかは覚えていないが、みきとPは男性である。

今この記事を書くにあたって聴きかえしているが、10年越しに聴いてもやっぱり良い。今風に言うなら「エモ」が詰まってる。最高にチルってる。卍。

当時ボーカロイドの曲を作っていた人たちの多くは、趣味で作曲していることを除けば、インターネットに暮らす住民の一人に過ぎなかった。だからこそというか、『夕暮れツイッター』とか『サリシノハラ』を聴くと、当時のインターネット独特の閉鎖的なコミュニティから生み出される、孤独感や無力感が伝わってくる。

恥ずかしくて表に出せない本音や、自分自身では上手く表現しきれない感情を、「初音ミク」という仮想のキャラクターの機械音声に託す。『僕は初音ミクとキスをした』のは、まさに声なきオタクにとって、「声なき声」を表現するための手段の一つだった。

アルバムに収録されている曲の多くは、歌詞が陰鬱としていて、言い方を悪くすると物凄く女々しい。「いーあるふぁんくらぶ」など、キャラクターの設定を基に書かれた曲もいくつかあるものの、表題曲の『僕は初音ミクとキスをした』など、作詞者の本音や繊細な感情が滲み出た楽曲が多く、当時初めてボーカロイドに触れた自分は、何というかリアルの音楽にはない魅力がある!と感じ、それに魅了されたものだった。今考えると、そうやって不安定な心の代弁を必死になって探しているあたり、思春期真っ盛りである。

今やボーカロイドはそのような繊細な心の表現に留まるのではなく、音楽の一種のジャンルとして広く親しまれている。僕はというと、その後のボーカロイドや歌い手の流行には全くといっていい程乗ることがなく、いろんな意味でディープでニッチな邦ロックの世界にのめり込んでいった。気づいたら周りの高校生が皆米津玄師を聴いている中で、Syrup16gやきのこ帝国を聴き漁っていた。

さて、冒頭の話題に戻ると、僕が久しぶりにこの『刹那プラス』を聴くきっかけになったのは。Vtuberの「歌みた」動画である。

コメント欄で「この曲歌ってくれて嬉しい!」「うわ、懐かし~^^」と歓喜するオタクを見てニヤニヤするオタクがそこにはいた。

この曲を聴いている当時、僕はオタクなりに、童貞なりに恋愛にお盛んだった頃で、「この曲はきっと、病んでる恋人に対する歌なんだな」と思い込んでいた。そう思い込んでいる自分がメンヘラに恋するメンヘラだったからである。

でも今聴き直してみると、それは表面的なミーニングに過ぎないと感じる。「見せてごらん 見せてごらん 本当の君を」「直接刺してあげる」といったフレーズに、他人に嘘を吐きながら本当の自分を隠してしまう自分、小さな他人の憧れや刹那的な欲望や夢に浮かれて自分自身を見失ってしまう弱い自分に対しての、哀れみや憎しみの感情が渦巻いている。

しかしながら、このように分裂した精神状態を表現することもまた、肥大した自己意識の中の妄想に過ぎないと考えてしまうと、何だかやるせない気分になる。救いようのない自分を認めてくれる他人や、責めて引っ叩いてくれる他人がいない限り、自分で自分の傷を舐め続けたり更に深く傷つける他に手段はないのかもしれない。そのように考えてしまうのは、メンヘラの性である。




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