空游ぐ者進む先
春の風が吹く。穏やかで暖かく、包み込むような優しい風だ。陽気な季節がやってきた事を祝うような、まるで夏の季節の始まりすら感じさせるような暖かい春の風が吹く
そんな天気に恵まれた日が続く中、僕は家の中でゴロゴロと何かをするわけでもなくベッドに横たわっていた
「あー….暇だなー」
そんなぼんやりとした発言も一人では少し広い空間に消えていく。彼はお仕事に行っていた。それもどうやらかなり忙しいようだ
こんないい天気の日が続いているのに仕事なのは可哀想だが、こればかりは諦めるしかない
忙しい彼の為に何かしてあげたいが、彼は僕に対して忙しい事を隠しているようだ。何気ない風に装っているのが伝わってしまう
昨夜もこっそり僕の背中で声を殺して泣いていたのを思い出す。声をかけても「大丈夫だよ、ありがとう」ばかり
「(別に素直に言ってくれればいいのに)」
そう思うが、前に自分が忙しかった時も彼に迷惑かけないようにと自分が思ったように彼もまた同じような事を考えているのだろう
「(なら、あの時のお礼として僕は僕に出来る何かをしようか)」
数日後、久しぶりに連休となった彼に早速声をかけた
「ねえ、一緒に行きたい所があるんだ」
彼が少しキョトンとした顔になる
「どうしたの?」
「昔に旅行した時に見た景色なんだけど、君にも見てもらいたくて。この時期ピッタリなんだ」
あえて場所や景色の内容は伝えない。ドキドキワクワクしてほしいからだ
「ふーん。俺は全然構わないよ。どこ?」
「ふふふ、内緒!僕についてきて!あ、支度はもう済ませてあるんだ!なんと!お泊まりだよ!」
「は!?え、準備早いな!?
あ!!謎のまとまった荷物はそういう事か!」
まず最初のドッキリは成功だ。今日は彼をいっぱいびっくりさせるのだ
早速外に出て駅へと向かう。新幹線へと乗って目的の場所へ
「まさか新幹線まで乗るなんて。結構遠い場所なんだな」
「うん。でもいい景色だから楽しみにしてて」
「ああ、もちろん。君がおすすめする場所なんだからきっといい景色なんだろうな。楽しみだ」
駅を降りて、バスに乗って、そこから更に歩いていく。景色はガラリと変わり、ビルなどが立ち並ぶいつもの景色から田んぼや畑が並ぶ風景へと変化していた。照りつける暑いくらいの日差しが逆に心地よい
「なんか、旅行してるって感じするな」
「久しぶりでしょ、こういうの」
「….ああ。風が気持ちいい」
彼が少し空を見上げてそう呟く。太陽が眩しいのか手をかざしている彼の顔はどこかこの青空のように晴れ渡っていた
「それと、この匂いも好きだぞ。夏が来るような、そんな匂い」
周りにある田んぼの匂いだろう。街ではこんな匂いには出会えない。栄養たっぷりの土と若い緑、澄んだ水と太陽が合わさって初めて生まれる匂いだ
「懐かしい雰囲気があるよね。僕もこういうの好き」
そんな話をしながら目的地に到着する。そこは開けた場所にある大きな自然公園だ
「ここは….?」
周りを見渡すとそれなりに車もあり人が奥に向かって歩いていくのが見える
「ここの大きな川にね、目的の景色があるの。結構有名で見に来る人もいるんだ」
「川か。どんな景色なのか想像つかないな」
「ふふふ、さあどんどんワクワクしてね!」
「はは、なんだそれ。もちろん君のおかげで久しぶりにワクワクさせてもらってる」
綺麗に整えられた舗道を歩きながら奥にある大きな川へと向かう。木々の木漏れ日がちょうど日差しを遮って気持ちいい。さわさわと揺れる音、日陰とひなたの温度差、木や葉の匂い
どれもが今、この季節にしか味わえない心地良さを醸し出していた
「…..こうやってさ、君とゆったり過ごしたくて頑張ってたんだ。長くでも一緒にいたいから」
「うん。知ってた、忙しいんだなって。だからこうやって計画したんだ。前の君みたいに」
「…..ああ。なるほどな。そっか。俺、とっても嬉しい」
木漏れ日の中、幸せそうに笑う彼の笑顔がとても眩しい。今、僕はこの旅行計画の中で一番の欲しいものを貰えたかもしれない
「うん。僕も君とまたこうやって過ごしたかったんだ。あ、水の匂いだ」
ふと鼻に清い水の匂いがした。耳を澄ますと水が流れるような音が聞こえる
「近づいてきたみたいだな….って….おお」
「あ、もう見えてきてるね」
上を見上げると既に目的の物が見えていた
澄み渡る青い空を気持ちよさそうに游ぐ黒、青、赤、緑、黄色の無数の魚
そう、鯉のぼりだ
「鯉のぼりなんて久しぶりに見た」
近づけば近づくほどたくさんの鯉が見えてくる。川のそばまで来ると上空を覆うほどの鯉のぼりの群れがいた
「いい景色でしょ。この時期になるとこうやって川の上に鯉のぼり達が並ぶの。最近はいろんな色も出たみたいでね。ピンクとか白とかオレンジ、金や銀みたいな豪華な色まで」
空を豪華に彩る鯉達が大きな川にも映り込み、まるで
「本当に泳いでるみたいだ」
「うん。天気がいいとこうやって川にも映り込むんだ。見れてよかった」
優しい春の風が、果てしない蒼の空を雲を掻き分けて懸命に游ぐ鯉達の背中を押す
「…….俺も、こうやって自由に空を泳げたらなぁ」
空を見上げたまま草原に座り込んだ彼に倣って僕も横に座る。見上げたおかげで表情は見えないが、きっと彼は
「…..確かにね。とっても気持ちよさそうだ。人間はいつもこの大いなる空に憧れる。でも、もしかしたら鯉達は僕達を羨んでるかもしれないよ」
「え?」
「鯉は滝を登ると龍になれるという。でも、鯉も龍も大地は歩けない。花を愛でられなければ、木や田んぼの匂いに想いを馳せる事もないかもしれない
人が空に憧れるように、魚は大地に憧れるのかもね」
バスンと音がして一匹の鯉が空から落ちてきた。大地に横たわった鯉はあんなに元気に泳いでいたはずなのに、ピクリとも動かなくなった
「鯉達が頑張って頑張って、激流のようなつらい場所を進んだ先が龍になって自由になるように。僕達も大地を進んだ先に幸せな景色があるはず
だからきっと大丈夫。ゆっくりでも幸せな景色に近づいていける。ね?」
そっと彼の右手に付いているシトリンのブレスレットに僕のサファイアのブレスレットが付いた左手で触れる。2つの光が日差しに反射して美しい
「うん。ありがとう、もしかして落ち込んでたのわかった?励ましてもらっちゃったな」
「いいんだよ。声に出さなくても伝わるものもある。ずっと傍にいるから」
「…..ああ。大好き」
旅行が終わった後の僕達の家のベランダには、小さな黄と青の鯉のぼりが仲良く揃って空を泳いでいるのが飾られるようになった
春の風が運ぶ幸せと希望
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