#42 社会人編 〜腕時計と葛藤〜
私は腕時計をすることが苦手だ。
こんな話をすると
「何を言ってるんだ?こいつは。」
と思われるかもしれないが、この気持ちはある一定数はいるのではないかと思う。
腕時計自体は特段嫌っているわけではない。むしろ、みていてかっこいいデザインの物とか、色々な機能がついていて便利な物などをみると、
「欲しい!」
と思うことさえある。
大学生のときは、かっこいい腕時計がつけたいという男子大学生ならではの若気の至り?が発動して、
「時計はやっぱ革で、アナログで、なるべくシンプルな西洋風のデザインの物がいいよね。」
など、どこかで聞き齧ったような知識で、時計店を渡り歩いてはこれがいいとか、あれはダメだと評論家気取りで見ていた記憶がある。
それはそれで楽しかったのだが、意外とこれが身に付けるとなると話が変わってくるのだ。
そもそも、私は体ピッタリに身に付けるものに対して抵抗感があった。
例えばタートルネックの服や、スキニーデニムとやら、果ては手袋なんかも嫌なのだ。
何が嫌なのかと言われると非常に困るのだが強いていえば、
「体を圧迫されている感じが嫌。」
なのかもしれない。
もとも幼い頃から近所くらいなら裸足でもよかったくらいの性癖の持ち主で、自宅では専ら靴下を放り投げて生活しているクチである。
しっかりと身に付けることをいつしか“煩わしい“と思うようになっていたのかもしれない。
どんな野生児だよ、と思われるかもしれないが、多分日本中探せば共感してもらえる人が20人に1人くらいはいると思う…統計を取ったわけではないので知らないのだが。
そんな私なので、腕時計も煩わしく思ってしまうらしい。
自分ではいつの間にかだが、私は腕時計をつけると奇怪な行動をしているという。
まず一つは、腕時計をひたすらつけては外すを繰り返すということだ。
全くの無意識なのでよく覚えていないが、はたから見ていると、私は腕時計のベルトを外し、デスクに置き、また腕に着け、そしてまた外して置く…をひたすらやっているらしい。
何をやっているのだろう。正直無意識である私からしてもちょっと怖い。
おそらく私なりの分析では、腕時計の煩わしさが体感的にピークに達すると腕から外すが、本来腕時計は身に付ける物、だという刷り込みによってまた腕に着ける、という動作を体が勝手に葛藤しながら行っているのだと思う。
周りからすればいい迷惑だろう。
「こいつは時計をしたいのか外したいのか、どっちなんだ!」
と非常にヤキモキさせてしまっていたかもしれない。
でも社会人としての常識と、野生児としての本能がせめぎ合っているのだ。これくらいはぜひ勘弁してほしい。
そして奇怪な行動の二つ目は、左右をたびたび入れ替えることである。
私は基本的に右利きなので腕時計は左腕にしていることが多い。
だが、おそらくこれも腕にかかるストレスがピークに達するからだろう。途中で謎の身に付ける手を変更し、右腕に着ける…らしい。
この場合も基本的に私が無意識なので、どちらの腕につけているということをあまり考えていない。
実際のところ私が本来左利きの人間なので、もしかしたら腕時計を本能的につけやすいと思った右手に付け替えようとしているかもしれない。
本能というのはあながち侮れない。元左利きの私は基本的に書く、持つ、食べるに関わることはどうしたって右手を使うのだが、スポーツや咄嗟に動く体、はさみやカッターのような刃物などは左を使ってしまうことが多い。
ちなみにそんな話をすると決まって、
「へえ、両利きなんですね、すごい!両方の手を使えるなんて羨ましいです!」
などといってもらえる。だが現実は少し違う。
結局やることなすこと全て、自分でも右と左のどちらが得意なのかよくわからなくなってくるのだ。
だから私はよく箸やスプーン、フォークなどを左で持っていることもあれば、バットやラケットなどを右手でブンブン振り回していることもある。
なのであえていうならば“両利かず“なのだ。これは非常に不便である。
閑話休題。
そうして頻繁に左右を付け替えるので、いざ
「時間は何時かな?」
と手首を見ても、何もない!反対の腕だ。なんてこともよく起こるのだ。
仕事柄頻繁にスマホとかで時間を確認できないので、腕時計は必須なのだがいまいち苦手意識を払拭することはできていない。
まあ昨今、どこかを見れば必ずといっていいほどどこかに時計があるので、すごく不便を感じることもないのだが。早いこと腕時計の感触に慣れて、かっこいい時計が似合うダンディな大人の男になりたいと思っている。
多分ダンディ要素は別に必要になると思うが、ひとまずは心にゆとりを持って腕時計が身につけられるようになろうと心に誓うのだった。