東北での復興支援に携わる中で人生のテーマを見つけた、製薬会社の広報の話
社会人9年目のいま、私はロート製薬で広報の仕事をしている。広報ひと筋ではなく、入社時には営業配属で、甲信越エリアのドラッグストアを担当。その後、社会人3年目の春、東北での復興支援の部門に異動し、2年間勤務したことが大きな転機となった。この2年はキャリアだけでなく、人生にも大きな影響をもたらす時間だった。
何度振り返ってみても、本当に良かったと思っている。一言で表現をするのがもったいないが、この機会をくれた会社や関わってくださった皆さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。
気づけば東北を去って4年が経過した。現地で何があったのか、なぜ良かったと思うのか、いまの私にどう影響しているのか、振り返ってみたいと思う。
ありがたいことに日々さまざまな場面で「ロート製薬」に接する機会があると思うが、この文章は組織に属する一個人の見解に基づくものとして認識いただきたい。
きっかけは社内公募だった
3年目になる春のこと。先輩から声をかけてもらい、社内掲示板に掲載された社内公募を知った。2011年3月から活動していた東日本大震災の復興支援・地域連携部門への異動案件だった。
実はこの時、夏に社会人入試枠での大学院受験を検討しており、それを知っていた先輩から「大学院に行くよりも現地に行った方がいいのではないか?」との勧めだった。
振り返ってみると、直前に東北に行ったのは2013年の入社直後にあった新人研修の2泊3日。正直なところ、勧められるまで私自身が自ら手を挙げて異動するイメージがなかった。
当時2年目の私は選んでもらえるのか?2年間本業から外れたらその後のキャリアはどうなるのだろうか?そもそも東京にいたい気持ちが強い私が2年間東京を離れることができるのか?さまざまな想いが頭をよぎる。
しかし少しずつ、自分の可能性を広げるチャンスであることも悟っていった。
実際に東北で活動する先輩と話をし、志望理由を書いて提出したところ、運良く選んでいただき、初めての異動・転勤・一人暮らしをすることになった。当時の営業先だった、長野県安曇野市の駐車場で聞いた内示は一生忘れないだろう。
ちなみに、ジョブローテーションが2・3年で来る人が多いため、入社3年目は初めて辞令を受ける人がちらほらといる(だからといって優秀とか、そういう話は一切ない)。社内の仲間にも公募を出していたことはあまり伝えていなかったので、辞令が出た時には部署を越え、たくさんの言葉をかけてもらった。
自分で手を挙げたものの、初めての出来事にとても不安だった。しかしたまたま新人時代に人事だった先輩とともに赴任することになり、少し不安が和らいだ。
東北で何をしていたのか?
現地では、ロート製薬がカゴメ・カルビーとともに立ち上げた公益財団法人みちのく未来基金に出向しつつ、ロート製薬の東北地域連携室(当時)のメンバーとして地域のまちづくりやイベント、現地での広報に関わった。
名刺はロート製薬とみちのく未来基金のものが両面に記載され、複数の組織に属する初めての経験だった。さらに関わる方々はほとんどが社外の方。ポーンと外に放り出された感覚だった。
みちのく未来基金では、全国からご寄附をいただき、震災で親を亡くした子どもたちの高校卒業以降の進学先に対する入学金と学費を返済不要で給付している。各社の出向者が中心に構成された事務局が、エントリー者の受付から学費の給付、寄附金の管理やイベントの企画運営を行う。
平日日中はみちのく未来基金に席を置いて活動しながら、それ以外の時間で身体が許す限り、ロート製薬の仕事をしていた。もう一生ないだろう、と思うくらいに土日も関係なく朝から晩までさまざまな場所へ行き、活動をしていた2年間だった。若いってすごい。
会社名をとっぱらい、一個人としてどう生きるのか
冒頭に「この2年はキャリアだけでなく、人生にも大きな影響をもたらす時間だった。」と書いた。結果して、可能性が広がるところか、価値観が大きく変わったことが影響したきっかけだと思っている。
どう変わったのか?と聞かれた際、実はまだ適切な表現に出会えていない。平凡な言葉しか出ず言語化に悩ましいが、今だったらこう答えるだろう。当たり前にある生活や命を大切に生きること。誰もが予想しなかった震災。その経験は一人ひとり異なる。それぞれが想いを抱きながらも明日に向かって歩んでいるのだ。
私は2011年3月11日、千葉県の実家におり、大きな揺れを経験したが被災はしていない。現地に足を運んだり、一人ひとりの話にじっと耳を傾けることでしか当時の情報は知り得ないし、それでも完全には分からない。でも、一人ひとりがいまを生きていた。次第に私が今ここにいる意味はなんだろう?できることはどんなことか?考えるようになった。
組織に属していると、いつの間にか「私は○○と思う」ではなく「会社的に××だから、××だ」と主語が変わってしまうこともある。もともと自主性を重んじる会社であったが、それでも会社名はアイデンティティの一つだった。
しかし現地では会社名など関係ない。皆さんは「ロート製薬の柴田春奈」ではなく「柴田春奈」と接してくださっている。出会いの度に「どうして東北に来られたんですか?」と聞かれる日々だった。
大したスキルなど持ち合わせていたわけでもない。だからこそ現地で率先して活動される方が眩しく、自らも巻き込まれることで、こうやって人は巻き込まれていくのか、と憧れの先輩像がたくさんできた。
大きなこと、影響力のあることはそう簡単にはできないし、それがすべてではない。とにかく小さくても目の前のできることをやる。そして時に五感を使い、目に見えないことも含めて、いまを生きるうえで大切にすべきことはなんだろうか、と確かめるようになった。
一人ひとり異なる人生や個性にどう寄り添うのか
さらにみちのく未来基金で大切にしていた一つの行動がある。それは奨学金を給付している「みちのく生」全員のプロフィールを覚えたうえで、一人ひとりと接すること。名前だけではなく、その他のことや今の状況など、見たこと聞いたことはすべて芋づる式に記憶していた。
さまざまなイベントだけでなく、時にはフラッと事務所に遊びに来てくれたり、電話をくれることもある。一人ひとりとの会話から、それぞれの過去や今、未来に触れる。誰一人同じ人はいない。一人ひとりとどう向き合うか?当たり前のことだ、と思う方もいらっしゃるかもしれない。でもみちのく生に出会って、改めて気づかされた大きなことだった。
ちなみに基金では、高校卒業以降の進学先に対する学費などの給付をしているが、それ以前からプレエントリーを受けつけている。当時すでにたくさんの将来のみちのく生からプレエントリーをもらっていたが、もちろんその子たちの分もだ。情報の濃淡はあるが、ざっと1,000人はいただろうか。事務局のなかで一番こだわり、誰に何を聞かれても答えていた。今でも当時ともに働いた仲間からは笑い話の一つになるほどだ。
「たくさんの子どもたちと出会い、接してきた」といえばそれまでだが、私は一人ひとりのこと、その裏にあるともにした時間やそこで話をしたことは離れて4年経っても忘れることはない。正直「子どもたち」との言葉を使うのも違和感がある。年齢関係なく、一人の人として向き合うことを学ばせてもらった。東京に住みながら、時々目にする名前や写真を見るたびに、さまざまな思い出が蘇り、いまに想いを馳せる。
普段の生活でも、つい世代や所属などで区分けしてしまうことがある。時に必要なことであるが、まとめてしまうことで一人ひとりの個性や価値観が失われる。失われた瞬間に、その人にとっての存在はなくなるといっても過言ではない。
一人ひとりに向き合う者として、それぞれ想いをいかに表現し、集団や組織のなかでどう交わり合うサポートをするのか。みちのく生との出会いから、一人ひとりとの向き合い方が人生におけるテーマとなった。
先日のnoteでも広報として「一人ひとりの伴走者でありながら社内のハブ、時に相談窓口でありたい」と書き、個人でもコーチングのセッションを行う理由はここにある。
東北に行って本当に良かった
東京に戻ってきてから時々、社内外問わず「東北の2年間はどうだったか?」と質問をいただく。その時の回答はだいたい決まっている。
「いやぁ…どう表現したらいいのか分からないのですが、みちのく生や現地で出会った方々にたくさんのことを学ばせてもらいました」
正直、いまもこの文章を書いていて、ずいぶんと感覚的、抽象的なことが多いことも重々承知している。対前○○%のアップにつながって!売上が○○億上がって!とは一切いうことはできないため、職務経歴書などの書き方を迷ったこともある。(笑)
それでもビジネスパーソン以前に人として大切なことがある、と学ばせてもらったし、それを今でも体現しようとしている自負はある、と胸を張っていいたいと思う。30代になったいま、まだまだ未熟なところもあり、打ち砕かれることもある。それでも頑張ろう、と再起するきっかけをくれるのはこの東北で出会った皆さんの存在だ。
いま、自己紹介をするときに私は少し悩んでしまう。ロート製薬の広報をしながら、複業をしていたり、個人事業ではコーチングもしている。何者なのか分からなくなる時もあるが、私のなかではすべてがつながっている。一人ひとりと向き合い、対話を通じて、その人の歩みに伴走すること。今回のこのnoteでなんとなくお分かりいただけただろうか。
改めてにはなるが、想像していなかったこの社会人人生も本当に良かった、と思っている。何よりこのような機会をくれた会社やアシストしてくれた先輩、関わってくださった皆さんには感謝しかない。
基金にいると、よく「恩送り」との言葉を耳にする。先輩みちのく生が後輩のためにさまざまなサポートをしてくれているが、もらった恩を返すのではなく、さらに下の世代に送るとの意味がある。
私自身の恩送りはどんな形だろうか、と思う気持ちもあるが、今後もこの経験をたくさんの人と共有をしていったり、この価値観を大切に仕事をしていきたい。
▼広報として仕事をするうえで大切にしていること
**Twitterもやってます**