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13年前の3.11の思い出

「あの3/11から13年が経過しようとしています」とニュースが伝える。
そうかぁ‥あれから13年たったのか‥‥
13年の年月は長い。私の人生もそれなりに13年の軌跡を刻んできた。
忘れてはいないけれど、いつも思い出しているかと問われたら、正直そうじゃないと答えることになるけれど、
こうしてニュースや特集番組に触れると、あの日の事を思い出す。

当時私は関東の地方都市で精神科の診療所に看護師として勤務していた。
勤務時間は9:00~18:00、勤務内容は外来業務と訪問看護。
2011/3/11この日の14:46を勤務先で迎えた。
15時からの午後の業務開始に向けて準備していた矢先に突然の大きな揺れ。
長い‥大きい‥‥何度も繰り返す‥‥
いつ止まる‥‥これはただ事じゃない‥‥
ドアを開ける同僚、窓を開ける同僚、戸棚を支える同僚‥不安がよぎる時間だけが流れる。
テレビの速報は、九段会館での卒業式、吊り天井落下被害の様子が流れている。
この時点では、まだ震源地の詳しい情報が入ってきていない。

私の午後の勤務内容は日中独居生活をしている、内科的合併症を有する精神疾患のお宅への訪問看護。
診療所からそのお宅までは、いつもなら自転車で20分弱。
そのお宅は、開発激しい駅近くにある古い家並みが残る所にあった。
近年の開発ブームの一方、そこだけ時間が止まってしまったかのような「The昭和」の一角。
そのお宅へは街一番の繁華街、幹線道路を経て行く必要があった。何時ならきれいに舗装された道路は自転車には優しい。ショッピングモールは雨や風避けにもなる快適コースだったが‥

しかし、この日ばかりは違っていた。
幹線道路の側には、何台もの車が停車している。
ひしめき合うように立っているビルの窓ガラスの軋む音、大きな看板の揺れる音とその動きに、歩いている人も思わずその場にしゃがみこんでいる。
自転車も真っ直ぐに漕ぐことが出来ずに、降りては押したり乗ったりを繰り返しながら、そのお宅に到着する。

その人は居間に布団を敷いて、いつものように横になっていた。
「大きな揺れだったねぇ‥怖かったよ‥」落ち着いた声で、いつも通りのやり取りをした。落下物も殆どなく、想像していた散乱の片付けの必要も全くなかった。
後で分かったことだが、勤務先の診療所も殆ど落下物がなかったのは、どうやら古来から地盤の安定していることで有名な所だったらしい。

一方私の自宅はというと、食器棚の戸が開いて、重ねてあった皿が崩れ落ちて粉々になっていた。
積み上げられていたものは、殆どのものが落下していた。
都市ガスの供給も停止されていた。
何より当時3歳だった愛犬が恐怖で家の至る所に尿失禁をしていた。
これも後から分かったことだが、頻発する地震警報が鳴るたびにビクビクして、腰を抜かしてそこから動けなくなっていた。
何度も襲ってきたこの揺れと警報は、小さな心では耐えられなかったであろうと容易に想像ができた。
その後も地震警報が鳴るたびに不安そうにしていたが、一緒にいる時は「大丈夫、大丈夫」と言って抱きしめることで、この失禁症状はおさまっていった。

私は定時に仕事を終え自転車で帰宅。
市内に車通勤の長男も早々に帰宅できた。

一方東京に電車通勤の夫は、帰宅困難判断で翌日の昼以降に帰宅した。
次男は茨城県神栖市でサークル合宿中。津波や道路の崩落を免れながらも何とか無事に、予定より2日遅れで帰宅した。
長女は高校の卒業イベントが目白押しの時期。通学電車はロカール路線でダイヤに大きな影響を受けて帰宅困難。この日は友人宅に泊めて頂き難を逃れた。
こうして我が家は市内勤務の長男と私の2人だけで報道を見た。

19時のニュース位になると、続々と詳細な情報が入るようになり深刻さが増してきた。
映像は津波に巻き込まれる町の様子、海水に飲み込まれていく田畑の様子や
逃げ惑う車の渋滞、夜に発生の火災‥‥
これは現実なの‥と見ているだけで胸が締め付けられて苦しくなる。
不安で心がつぶれそう‥もう、これ以上映像を見続ける事はできない。

電気も点けず暗い中、ラジオをつけた。
流れてきたのは、TBSラジオの特番。外山惠理さんが落ち着いた声で、現実を伝えながらも、過度な不安に陥らないように皆んなで心を安定させましょうという呼びかけをしていた。

落ち着いたBGM。ビートルズだったかなぁ‥ひとり布団の中、聞きながら涙が止まらなかった‥
それでも、やがて眠りにおちて‥

翌日3/12,いつものように自転車で職場へ向かう途中、けたたましい程の消防自動車のサイレンが私を追い越していく。
私の通勤道路と同じコースを3台の消防自動車が走っていく。
やがて私の職場の近くにさしかかる。
追い抜いて行ったはずの消防自動車からのアナウンス‥「消防に連絡をした方はどちらですか~?」「火災現場はどこですか~?」

こんな日本の緊急事態の時に、こんなイタズラ電話をする「ゆかい犯」なることが起きている事実に、暗澹たる気持ちになった事は忘れられない‥

その後は、原発事故による福島からの集団移動、計画停電、買い占め騒動と色々な事があったけど、皆んなが「絆」と言って助け合う日々につながる。

私が勤務していた診療所でも、この事とは決して無縁ではない事、自分が頑張っても解決出来ない事が身の回りには沢山あるのだ、という事を嫌と言うほど突きつけられた日々を過ごした。

13年ですか‥
心の赴くままに書いてみた記憶の断片です。
今は現役を引退したけれど、鮮明に思い出す私の3.11の記憶です。

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