見出し画像

おうちで「東海道五十三次」絵と絵の間の旅 #3 川崎~神奈川

早朝に日本橋を出発した多くの旅人が、お昼を食べた川崎宿。

この宿で名物だったのが「万年屋」の奈良茶飯です。

松濤軒斎藤長秋ほか筆『江戸名所図会 7巻』[5], 国立国会図書館デジタルコレクション収録 (https://dl.ndl.go.jp/pid/2563384)

「江戸名所図会」にも描かれた万年屋は、江戸側から宿に入ってすぐの所にあり、元々はいわば定食を出す粗末な飲食店でした。
 
奈良茶飯とは、少量の米に大豆や小豆などを加え、塩やしょうゆで味付けして煎茶やほうじ茶で炊いた炊き込みご飯のことで、万年屋の奈良茶飯はこの茶飯に、豆腐の味噌汁と煮豆の付いたものだったそうです。
 
当時天ぷらそばが32文のところ、奈良茶飯は38文とリーズナブルであったことから大ヒット。「東海道中膝栗毛」の中で弥次さん、喜多さんが食べたことで一大ブームになりました。

私もさっそく万年屋に入って、奈良茶飯を注文です。
店には女性や子供も多く、老若男女に親しまれているようです。

身体に良さそうな素材しか入っていない!!
素朴で、慣れ親しんだお味です。

万年屋は、近くに川崎大師への分岐があったため、その参拝者も多く立ち寄り、後には旅籠(宿屋)になりました。
川崎宿で一番の旅籠に成長した万年屋には、幕末に和宮やハリスという有名人も泊まったのだとか。

とりあえず、お腹は満たされました。
余りにお腹いっぱいだと、このあと歩けませんしね。

それでは全長1.4㎞の川崎宿を通り抜け、およそ2.5里、約10km先の神奈川宿を目指して出発です。


現在のいさご通りにあった川崎宿を出ると、これまでは海が多かった街道からの眺めが、随分と変わりました。

川崎から市場村まで、東海道はまっすぐに田畑の間を抜けていきます。
街道の周りには、田畑とその間を通るあぜ道が広がり、農作業をする人びとの姿があちらこちらに見えます。

のどかな風景です。

この市場村までのあぜ道は8丁(約872m)ほどあったことから、この界隈を「八丁畷」と呼びました。

現在の京急八丁畷駅の手前30mほどの所には、芭蕉の句碑が残されています。
松尾芭蕉は1694年に、それまで暮らしていた江戸から故郷の伊賀上野に旅立ち、このあたりまで見送りに来ていた弟子達と句を読みあったのだそうです。

市場村の手前には、現在は川も橋もありませんが、江戸時代には灌漑用水の一部だった2本の川と2本の橋があり、この橋を夫婦橋といいました。

この夫婦橋を渡ると市場村です。
今でこそこの界隈は海岸線から少し距離がありますが、品川周辺同様、このあたりも埋立地の為、当時は海辺に近く、漁などが盛んでした。

「市場」と言う村の名も、魚介の市が開かれ、利を得た者が多くいた為に付いたのだそうです。

この辺りには紫式部にもゆかりがあるという「市場観音(一心山専念寺)」があります。

私もお参りして、この旅の無事をお祈りしておきます。

さすがに朝からここまで歩き通しで、足も腰もあちらこちらが痛くなってきました。


さて、まもなく鶴見川です。
鶴見橋を越えた先が鶴見村で、この辺りで東海道は左にカーブしていきます。
そして鶴見村から隣の生麦村にかけてが、間の宿の鶴見宿です。

今や正月の一大イベントである箱根駅伝は、もともと1917年に開催された東京~京都間の「東海道駅伝」に始まり、そのルートは旧東海道に準じています。
その箱根駅伝で最初の中継所となっているのが鶴見です。
 
鶴見宿の名物は「よねまんじゅう(米まんじゅう)」と言うもので、鶴見橋の周辺に40件ほどの店がありました。
一番の老舗が「鶴屋」で、ここの娘のよねが売り始めたとも言われています。
 
よねまんじゅうは、塩餡のもちを俵型に小さく丸め、焼きごてで焼き目をつけたものでした。

前を歩いていた武士が、よねまんじゅうを買い求めています。
私もかなり気になりますが、足腰が痛い私は、どこかに座って休憩したいので、よねまんじゅうは見るだけにしておきます。

この鶴見宿で一番有名だったのが「信楽茶屋」と言う茶屋です。

松濤軒斎藤長秋ほか筆『江戸名所図会 7巻』[5],国立国会図書館デジタルコレクション収録 (https://dl.ndl.go.jp/pid/2563384)

「江戸名所図会」にも描かれていますが、竹の皮に包んだ梅干と梅漬けのしょうがで有名な茶屋でした。
なお、「江戸名所図会」ではここは「生麦」とされていますが、正しくは「鶴見」です。

ということで、私も信楽茶屋で一服です。なかなかたくさんのお客さんがいますね。
お茶と竹の皮に包んだ梅干をいただきます。

しかし何といっても、少しの間でも座って足を休められたのが良かった。
それに酸っぱい梅干しで疲れも吹き飛びます。

この鶴見から現在の横浜にかけては、幕末以後大規模に埋め立てが行われました。
しかし江戸時代には、鶴見から先の東海道は再びの海岸沿いでした。この周辺は海浜に面して景色が良いことから、茶屋が多く、間の宿となったのです。
 
幕末、薩摩藩の藩士がイギリス人を殺傷した「生麦事件」で知られる生麦村は、2代将軍・徳川秀忠の行列が通るとき、ぬかるんでいた道に生麦を刈り取って敷いたことからこの名が付いたと言われています。
 
品川と同じく、幕府に新鮮な魚介を献上する「御菜八ヶ村」の1つであった為、旧東海道である現在の生麦魚河岸通りには、今も多くの魚屋が軒を連ねています。

沖には漁をしている舟もちらほら見られます。

のどかなあぜ道もいいけれど、やっぱり海を眺めて歩くのは気持ちいいな。

そのまま海岸沿いに西に進むと、安産や子育てを祈願する子安観音(現在の東福寺)から名前が付いた子安村を経て、神奈川宿に入ります。

つづく

いいなと思ったら応援しよう!