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おうちで「東海道五十三次」絵と絵の間の旅 #2 品川~川崎
早朝の日本橋を出発し、朝の内に1つ目の宿場、品川に到着した私。
建物が立ち並ぶ宿場を進み、目黒川を渡ります。
全長2㎞に及んだ品川宿も、海晏寺(かいあんじ)というお寺の門前までです。
品川を出ると、眼前の海には漁をしているらしき船がたくさん見えます。
現在のように大規模に埋め立てられる前の、江戸時代の品川沖は漁業が盛んでした。
中でも北品川宿の「品川浦」と、品川宿のすぐ南、現在の鮫洲付近の「大井御林浦」は、幕府に新鮮な魚介を献上する「御菜八ヶ浦」と呼ばれる漁村だったのです。
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またこの広重の浮世絵にあるように、品川沖は海苔の産地としても知られていました。
しかし埋め立てが進み、周囲の環境が変化したことにより、1960年代に品川の漁業は消滅してしまいました。
今の品川からは漁村の面影を感じることはとてもできませんが、このあたりにもそんな時代があったんですね。
さて品川から次の宿場、川崎まではおよそ2.5里、約10kmです。
品川宿で一服したことですし、一気に川崎を目指しましょう。
街道を南西に進むと、まもなく立会川にかかる浜川橋に着きます。
この橋を渡ったところが鈴ヶ森で、ここには死刑が行われる鈴ヶ森刑場がありました。
現在は大経寺というお寺の境内になっている鈴ヶ森刑場は、1651年に開設され、有名な八百屋お七などがここで罰せられました。
刑場に送られる罪人の家族などは、浜川橋まで見送りが許されていた為、涙で分かれたこの橋は「涙橋」と呼ばれていたのだそうです。
鈴ヶ森のあたりでは、私もちょっとそわそわして、心なしか早足になってしまいました。
さて、かつての東海道は、品川宿の北境、八ツ山からこの鈴ヶ森刑場を過ぎるあたりまで、現在の国道15号の少し東を通っていました。
しかし鈴ヶ森を過ぎ、現在の国道15号に合流すると、ここまで長らく海岸線のすぐ脇を通っていた街道が、少し内陸に入っていきます。
そして内陸を進むと、やがて大森宿へと差し掛かります。
街道には宿場と宿場の間が長い場合などに、旅人が休憩したり、物品の運搬を行う人たちの交代の場所となるような村があり、これを「間(あい)の宿」と呼びました。
鈴ヶ森八幡(現在の磐井神社)前から蒲田の梅屋敷(現在の聖蹟蒲田梅屋敷公園)までは、江戸を出てから東海道で最初の間の宿である、大森宿です。
ずいぶんと賑わっていますね。
大森宿は、食あたり、暑気あたりに効き、旅の常備薬として重宝されていた「和中散」という漢方薬で知られていました。
この「和中散」の店は、大森村の中原、谷戸、南原というところにあり、この内、南原にあった店が隣の蒲田村に移り、梅の木を植えて、梅干と茶を出す茶屋を兼ねるようになりました。
するとこの茶屋が梅の名所として知られるようになり、「梅屋敷」と呼ばれ、休憩場所として人気を博したのです。
ここが現在の聖蹟蒲田梅屋敷公園です。
江戸を出発した旅人は、この梅屋敷で最初の休憩をとることも多かったようです。
私は品川で一服しましたので、ここでは休憩は取りませんが、折角なので、大森宿で和中散を買っていくことにしましょう。
粉薬ですね。
これを飲まずに済むよう、元気に旅をしたいものです。
さて大森宿を過ぎたら、あとはまっすぐ進めば、多摩川の岸辺に到着します。
この多摩川を渡れば川崎宿です。
つづく