『三都メリー物語』⑩
西の空に夕日が沈みかけている。辺り一面が
藍色に染まるそんな光景をブルーモーメントというらしい。天気がよく雲のほとんどない、空気の澄んだ日にだけ現れると言われている。
レイは仕事を終えて駅まで歩いていると、その光景を目にした。電車に乗り、帰宅ラッシュの人並みに押され車内の奥へと進む。
昨日は、何のメールもなかった。そんなものよ。名前も書かずにいたのだから。レイはそう思う。
電車は進み出すと、車窓から見える空はもう、暗闇の世界と変わっていた。街灯や店、マンションの家々の明かりが灯り、いつもの夜の光景になった。
レイは、次の駅に降りて、駅前のスーパーで買い物をした。
この時間になると、野菜は売れ残ったものがいくつかあるだけで、惣菜や造りも少ない。力尽きるまで仕事を頑張ったのに売れ残りかと、レイは思う。
店をで出ると、冷たい風が吹き、レイは肩をすくめた。
自宅に着くと、クッキーをつまみながら食事の支度をする。
帰宅した藤岡准教授は、丁寧にレイの作った食事をいただく。そして、学生の話をよくする。
レイは、風呂に入り数時間後にそろそろ寝ようかと灯りを消した時、携帯電話が振動した。隣で寝ている藤岡准教授は、それには気付かなかったようだ。
慌ててトイレに行く振りをして、携帯電話を持って部屋を出た。
向こうから空メールが届いた。
返信メールに自分の名前、それと名前を書かずにいたことを謝った。
すると、返信が来た。
『あのチョコ川田さんなのかあ、ありがとう。嬉しいです。』
これで終わりたくないと思いレイは、
『実は、相談したいことがあって…』
『どうかしましたか?』
『実は、私の隣の森本さんは婚約者がいて。けれど車内の井上さんとも付き合っているらしくて…』
『そうですか。暫く、様子をみてみてはどうですか?きっとどちらかに決めるんでしょう』
『そうだといいんですが』
『きっとそうですよ』
『ありがとうございました』
『いえ、こちらこそありがとう。僕は、甘いものが好きなんで、嬉しいです』
『よかった。おやすみなさい』
もう、返信はないと思っていると
『おやすみなさい』の返信が来た。それだけで相手の気持ちが近付くのが分かった。
次の日レイが出勤すると、長身の顔立ちのはっきりした稲垣がデスクでレイを見て、にっこりと笑った。レイも笑顔を見せた。
レイの隣の森本ユマが、朝から携帯電話にムキになって打ち込んでいる様子だった。
どうやら後ろのデスクの井上さんが休んでいるからだ、おそらく休むことをユマには知らせていなかったのだろうとレイは、思った。
昼休憩も午後の休憩も朝と変わらない様子でムキになって携帯電話に打ち込んでいる。仕事中も時々携帯電話を見ている。
この日の夜、レイは稲垣にメールした。
『それも、暫く様子を見ましょう』と返信が来た。
稲垣さんは、このメールに奥さんに何か言っているのだろうかと、ふと思った。
『そうですね』で、返信を終えた。
稲垣は、コピーをよくレイに頼んだ。会議でもよく稲垣は、レイに意見を聞いた。
『今日の会議の件で、いろいろ話を聞いてくださり、ありがとうございました。今夜の月は満月で、とても綺麗です。おやすみなさい』
『そうですね、僕も先ほど月が綺麗なんで
見てました。おやすみなさい』の返信があった。
なんでだろ、ユマに対する許せない気持ちはもう消えていた。けれど、こうやって稲垣さんにメールすることで心が通じていることに微かに喜びを感じている自分がいた。