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【小説】記憶 vol.2

 暗い空に月だけが明るく光り、いつまでも続く虫の音を覆い被すように、
「弟が、塾で喧嘩で殴り合いになったらしい」
「弟くん、大丈夫なの?」
 あんなに沢山の虫の音が暗闇に響き渡っていたはずなのに、神井恭平の耳には入ってはこなかった。
「事情は、分からない。けど、今父が出張中なんだ。オレも母と一緒に弟の塾に行ってくるよ」
「そうね」里家美梨は、それしかいえなかった。
 美梨を駅の改札口まで送って急いで自宅に向かった。

「こんな事、初めてよ。息子二人を育ててきたけど。こんなことで呼び出しだなんて」恭平の母の知子が、着替えを終えて髪をとかしながらいった。
「取り敢えず、塾で事情をきかないと」恭平が、落ち着かない母にいった。
「そうね、こんな時に父さんも出張だなんて」
「僕も行くから」大学3年の恭平も二十歳になっている。
「そうね」と自分にいうようにいった。

 塾の事務室の隣の小さな会議室に塾の先生である若い男性の岡林先生と塾長の顎ひげのある華奢な60代の男性が並んで座っていた。長机を挟んで向井合わせに恭平の弟の彰宏が、俯いて座っていた。恭平たちが来ても、彰宏は微動だにしなかった。

 岡林先生によれば、相手の男子がたまたま机から横に足を出してしまった瞬間に、彰宏がその足に引っ掛けてしまって、それが原因で喧嘩になって殴り合いになった。
 相手は、おとなしい男子で悪気があった訳ではないし、彰宏くんから先に殴ったらしいが、もし躓いて打ちどころが悪かったら。 そういうところで、お互い誰が悪いではなく、お互い謝るということになった。

 先生方に、母の知子と恭平とずっと俯いたままの彰宏は頭をさげて謝って小さな会議室を出ていった。

「成績が良くて、呼ばれるのはいいけれど、もうこんなことで親が呼ばれることはしないで。人に怪我をさせることも許さないから」
 自宅に戻った三人は、リビングのソファに座って母の知子が、激しいけんまくでいった。
「お兄ちゃんなんて、真面目にしているじゃない。担任の先生が学級委員になったらどうですか?そういわれてたのよ。どうしてあなたは、勉強もしないし、こんなふうに呼び出しがあったりするの」知子は、呆れて肘を膝について頭を抱えた。

 その一年後、知子と夫の俊晴のもとに封筒が届いた。

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