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生活に余白が出来ると泣きたくなる

ニュージーランドに来ておよそ4ヶ月。ここ数週間でようやく生活が本当に安定した。仕事の収入も安定して、帰って安心して寝る場所がある。朝のルーティンも形 確立されてきた。起きたらまず靴下を履く。朝ご飯の準備は、薄いパンを2枚軽くトーストして、一枚には事前に準備しているツナとトマトのソースを乗せて、フライパンを出して卵を軽く焼いてパンに乗せて、その上に切ったピクルスを乗せて、その上からチーズ、ブラックペッパー。少しチーズを溶かすために電子レンジに入れる。その間にもう一枚のパンにブルーベリージャムを広げる。私は朝ご飯を妥協できないタイプだ。朝からフライパンを出すことも厭わない。こんな感じで、一つ一つの行動が作業的になってきた。まだない明日がもうあるものだと思って、そうしたらやっぱり明日が来て、今日を過ごす。そして明日を待つ、みたいな。

日本にいるとき、なぜか毎日泣きたかったし、実際にかなりの頻度で意味もなく泣いていた。ある曲の歌詞に「2日に3度は一瞬泣きそう」っていう歌詞があって、聴くたびに共感もしつつ、私はそれ以上の頻度で泣きそうだし泣いているななんて考えていた。

私は余裕があると、自分と対話する時間があると、感情の終着点が悲しみになってしまう。目先の楽しいことに目を眩まし続けている限りは、楽しんでいるのかは分からないけれど、生活を前に進めることができる。

なんで感情の終着点が悲しみになってしまっているかと言うと、自分のやりたいことが分からないからだと思う。本当にやりたいことが分からない。今の私から出る言葉は全てウソかもしれない。何に対しても本当は希望なんて持っていないし、期待もしていない。自分自身に対しても期待をしなくなっているかもしれない。なんでかっていうと自分がどうやって生きていきたいのかが本当に分からないから。モラトリアムで一生を終えたい気もするけれど、それが味気ないことも分かってる。ていうかそんなことができないことも分かってる。適当に生きたい気もするれど、それで自分が満足しないことも分かっている。だからといって、信念のないまま、信念のあるふりをして、成功者のふりをして生きていくことも自分にはできないことも分かっている。

本当のほんとうはのらりくらり生きていきたい気がするけれど、私の性には合わないっぽい。性っているか自分の立場には合わない。私は責任を持たずに適当に生きられる立場では全くないからね。私がビリオネアの子どもだったら話は違うけど。

今の私に必要なのは、たぶん目標だと思う。漠然としているけれど、自分の生き方とか、職業とか自分の根幹になるものに対する目標。一筋の光を差し込ませないと。そこに向かって歩けばいいんだとうっすら足元を照らしてくれるものが必要。いまちょっと足元が暗すぎて転けそうになってる。一度転けたらもう立ち上がる必要がないんじゃないかと思ってしまいそう。ここ最近、本当になりたい像、目標を見つけられた気がしたのだけれど、現実から目を背けるために設定した感じがしてしっくりきていない。

ていうか人生がこれからも続くってマジで言ってる?めっちゃ楽しみではあるんだけど、意味わかんない!生活に余白が出来ても、穏やかに過ごせる日がいつかは来るのかな?今日はもう今飲んでるコーヒー飲み切って、中華系スーパーマーケット行って、魯肉飯の材料買って、とっとと家に帰って魯肉飯つくろ。レシピは日本で働いていたお店のやつを店長から前にラインで教えてもらった。わざわざ手書きで書いて送ってくれた。この店の魯肉飯が一番美味しい。フラットメイトがいたら少し食べてもらって感想聞きたいな。あと店長にも完成した魯肉飯の写真送ろう。こうやって考えるべきことを先延ばしにして、目先に楽しいことを持ってくることばかりしちゃうからダメなのかも。でも私の唯一のある将来の目標として、30代くらいで間借りで月一とかで魯肉飯屋をやるっていうのがあるから、これは夢への第一歩だよ。言い訳に聞こえてるかな?

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