自分の自転車回顧史
まだ幼稚園に行くか行かないかの頃のこと。父親に連れられて行った近所の古道具屋の店先に、16インチほどの小さな太いタイヤで、オレンジ色と緑色のペンキがコテコテに塗られたフレームの自転車が置かれていた。
父親が店主と何やら話をしたあと、その自転車を買って帰ったときのことを、古い映画のワンシーンを見るように何故だか鮮明に覚えている。最初は補助輪付きで乗っていたが、やがて補助輪なしで乗れるようになり、それが自転車との初めての出会いだったように思う。
小学校の頃には、セミドロップのハンドルにフラッシャー付きの自転車が流行っていた。経緯はよく覚えていないが親がその憧れの自転車を買ってくれて、駄菓子屋をやめたあと物置のようにしていた土間に大事に置いていた。フレームの色は鮮やかなブルーで、フラッシャーを点けたり消したり、眺めてはあちこち触り嬉しい気持ちでいっぱいだったことを覚えている。友達と変速機の使い方について話をしたり、近所の自転車店のおやじさんと親しくなって自転車の構造について色々教えてもらい、自転車そのものが大好きになっていった。
そして、小学生にしては結構遠くまで走り回っていたことを思い出す。
高校になる頃には、黄色味掛かったクリーム色のフレームのサイクリング車、ベニックス(今から思えばランドナー)を手に入れた。近くでは奈良の明日香や、遠方では当時あちらこちらにあったユースホステルに泊まりながら天の橋立などにサイクリングに出掛けていた。私の自転車好き、特にランドナー好きはこの自転車から始まったように思う。
(こうして当時のことを改めて思い出してみると、自転車に大変理解があった両親に只々感謝)
大学になる頃にはもっと自転車にのめり込んでいた。入学してすぐにサイクリング部に体験入部した。自転車好きの趣味人の集まりのようなものを期待していたが、体育会系のクラブで、体力作りのため丘陵地で坂の多いところに立地していた大学周辺を結構なスピードでランニングするのが日課だった。何度か参加したがランニングについていけず、すぐにくじけて行くのを止めてしまった…軟弱な男子だった。(今も上り坂でしんどくなればすぐに降りて押すが…)
大学の4年間はスーパーでアルバイトをしながら小金を貯めては自転車部品の購入や自転車旅の費用に充てていた。最初に組んだランドナーは、いわゆる吊るしのフレームで水色のケルビム。当時はフランスやイタリアの美しい部品が潤沢に出回っていたので好みの部品を買ってきては組み付けて完成させた。
次に組んだのはTOEIのフレーム。TOEIのオーダーフレームは造りが美しく憧れの逸品だったが、オーダーするほどの貯えはなく、吊るしのフレームにしか手が出なかった。これにもフランスの部品を中心に、一部は好みの国産部品を使いながら自分なりのランドナーに組みあげた。ハブはピカピカのバフ仕上げのマイヨール700、リムはスーパーチャンピオンやマビックの 650B にユッチソンの42Bを履き、リムからむちっとはみ出たタイヤを上から眺めるのが好きだった。
大学時代には、近場では紀伊山中の林道から太平洋岸に抜けて紀伊半島一周とか、ニューサイクリングの紀行文を何度も読み返した木曽御嶽山や信州アルプスの麓、青函トンネルの工事をしていた頃の青森、四国一周、九州一周、五島列島…など夜行列車やフェリー、時には飛行機(YS11)を利用して全国を走り回っていた。
当時は民宿があちらこちらにあり、当日の飛び込みでも結構泊まることができた。民宿でお年寄りの方と話をすると、九州の方言はなんとなく理解できたが、東北のお年寄りの方言はほとんど何を言っているか分からず、若い奥さんに通訳してもらい皆笑っていたことを思い出す。
木曽開田高原の民宿に泊まったときは、翌朝起きてみると一面銀世界になっていて、高山への雪の峠道で東京から来た人と出会い、その夜は高山の民宿に同宿し鬼殺しを呑みながら夜遅くまで自転車談義をしたこと、
御嶽山の麓の民宿では、名古屋から来た4人組の大学生と宴会になり、翌朝は二日酔いで地球が回りながら林道を押し歩き鞍掛峠に向かったこと、
青森の民宿では、隣の部屋の人に車でねぶた祭を見に連れてもらい、その熱気に圧倒されたこと、
など数えきれないほどの想い出がある。
そして、当時入り浸っていた自転車店で、気に入った部品を見つけては購入して組み換え、自転車そのものにもどっぷりハマっていた大学時代だった。
昭和57年に就職。給料を少し貯めると京都の自転車店に出向き、当時ニューサイクリングによく紀行文を寄稿されていた店主と相談しながらTOEIのオーダーシートを仕上げていった。数ヶ月して出来上がったフレームを父親の車を借りて京都の店まで取りに行った。家に帰ってフロントキャリアを取り付けてみるとキャリアの足の長さが短くてフレームのダボに届かない。直ぐに店に電話し、フレームに合わせたキャリアを作成してもらった。部品はフランスのものを中心に、自分なりに理想のランドナーに仕立て上げていった。入社後しばらくは同じ部署の先輩とあちこち走り回っていたが、やがて仕事が忙しくなり、ランドナーの自転車旅からは自然と遠のいていくことになった。
それから30数年。近年世間でロードが流行っていたこともあり、自転車熱が再燃しロード(LOOK)を手に入れた。カーボンフレームがめちゃくちゃ軽いこと、WレバーからSTIに変わって変速がスパスパ決まること、リヤのギヤ板が11枚のワイドレシオになっていることなど、持って軽い走っても軽い自転車に進化していて時の流れをものすごく感じた。
四国八十八ヶ寺を巡るときなどにLOOKを車で現地まで運んで走っていた。ピチピチのレーサー服を着たり、あのスカスカのヘルメットを被るのにはどうも恥ずかしさがあり、走るスタイルはランドナーに乗っていた当時と同じような軽い運動着で、走る速さや走り方もレーサーとはほど遠く極めてランドナー的。LOOK購入時にトークリップを付けようと思っていたが、店の人にさすがにそれよりはビンディングの方が絶対によい、と強く勧められ、靴だけはビンディング対応のものにした。但しペンギン歩きのバリバリのビンディングではなく、なんちゃってビンディングのクリッカーだが…
TOEIのランドナーは分解して長らくベッドの下に収納していた。昨春たまたまバイクで出掛けた里山の地産店で、これぞTheランドナー、という自転車を見かけ持ち主の方に話かけたところ、京都にランドナー専門店があり、もう手に入らないと思っていた部品が販売されていることを教えて頂いた。これをきっかけにランドナー熱が再燃し、タイヤなど劣化した部品を早々に手に入れ、少し肌荒れ気味だった部品を磨き倒してピカピカにして走れる状態に再生した。
試走は名田庄の道の駅近くの渓流沿いの道で行ったが、ロードとは違う柔らかい乗り心地を久しぶりに味わった。ただランドナーの方は、今となっては走るよりも、もう手に入らなくなった部品やフレームの美しさを眺める時間に使う方が好きで、なんとしても今の状態をキープして、時々は自然豊かなところまで車で運んで美しい風景と一緒に写真を撮ることに特化したいと思っている。
そのため、LOOKをランドナー風なスタイルに変化させて、これで走ろうと少々企みを持っているところ。
自転車の部品や自転車旅についてまだまだ書きたいことはあるが、とりあえずここまでとして、機会があればまた続きを書き留めることにしよう。
2021.02.04:初記
2023.02.23:本文の一部を追記変更