ぜんぜん合理的じゃないから、人間は楽しい
明日は息子が社会科見学に行くので、お弁当を作らねばなりませぬ。
やりたいことをやって、やりたくないことはやらない。
これを徹底しているわたしでも、以前、おにぎりとソーセージと卵焼きだけのお弁当を持たせて「僕のだけ、愛情がこもってないお弁当で悲しかった」と泣かれてしまった経験があるので”愛情がこもった風”弁当を作るべく、先ほどまで下準備をしておりました
どうせ排泄するなら、食べなきゃいいのに
今でこそ、料理の素晴らしさに敬服していますが不倫されまくっていた頃のわたしは「どうぜ排泄するのに食べなきゃいけないなんて、不便だな」と思ってました
怖いですよね
いや、書いててもあまりの感性の乏しさに父ちゃん、情けなくって涙でてくらぁ!です
よく、そんな女と結婚したよな、夫…とも思ったりもしてね
あっ、今は美味しいものを見ると「美しいぃぃぃ」と感動できるほどに回復しております
ちなみに、わたしは美味しいものはを”う、うつくしい…”と感じる性質があり、美しい食べ物を見るとどうしても「ブローチにしたくなる病」が発動しますww
さて、話を戻して。
合理的なことを求めれば求めるほど、創造性は失われます
なぜなら創造性には「無駄」が必要だから、だとわたしは考えています
「一番コスパがいいのは、死ぬこと」
先日、経済学者の成田悠輔さんがYouTubeで言ってました
そうなんですよね、人が生きるってこと自体、コスパは悪い
無駄っちゃ、無駄なわけです
でね、それが解っちゃうと「生きる」とか「人生」に対する姿勢が変わるよなって思います
なんのために生きてるのか
人生の目的とは
そんな大それた暇つぶしをしなくて済むわけです
そうするとね、料理なり音楽なり絵や文章、そういう創造することの豊さとか幸せをより味わえるようになるなって感じています
こうして、わたしが文章を書いていること自体が最高の暇つぶしだったりするわけです
創造するときが一番「自分らしい」
仕事をしていると「自分らしい」がわかりませんと聞かれます
そんなのわたしにもわからないのに(笑)
いや、もちろん「わたしにもあなたの”あなたらしさ”はわかりませんよ」なんて言いません
できる限り、その方にあった伝え方をしてはいます
で、それって結局「真剣に生きる」をやらないとわからないことだと思うわけです
真面目じゃなくていい
でも、真剣に生きること
この区別を意識してる人って案外少ないんですよね
みんな、本当に真面目だけど、真剣じゃないなって感じます
仕事はさ、真面目な方がいいのかもしれないけど、普段の私的な自分でいるときは、なんでも真剣にやったら勝手に「自分らしく」なるのになって思うのです
無駄なことを思い切り真剣にやってみると時間っていくらあっても足りない
そうやって生きるために生きてるんだよな、きっと
そして、人間は真剣な人に惹かれるようにできてる
つまり、やっぱり、合理的に生きてるだけだと愛されないんだなと書いてて気づいた今
無駄なことを真剣にやるほど、何かと何かがつながるようです