はじめに
昨夜思いがけずnoteでコメントいただきまして、一考に値するおもしろさを感じたので、さっそく新たな記事のテーマとして考察することにしました。笑いとユーモアが主題なので、いままでの堅い記事よりは気楽に読める内容になっているかもしれません。
なお、本文中に貼られたリンクをたどれば、これまでの志ん奇談初期開発シリーズの復習にもなるかと思います。ではどうぞお楽しみください。
Gemini 1.5 Pro-002と探る〈反記憶術〉初期開発#05
ACIMはイエスの大喜利か
あなたは「大喜利」って知ってますか?
あるひとが、ACIMはイエスの大喜利として気楽に読むのがいいんじゃないかと言っていました。
たしかに言葉遊びや意味のズラシや転倒から笑いを誘う大喜利というゲームは、ひろい意味でのレトリックの実践と言えます。さらに、笑いは固着した権力関係を脱臼させる効果もあります。
このような大喜利の特性を考えると、ACIMは一種の反記憶術だとする志ん奇談の主張と、ACIM大喜利説は、それほど遠くないと思えるのです。
言葉遊びの視点から志ん奇談の考察を回顧する
あなたはいつも、バランスの良い回答を返してくれますねえ。うれしくなります。
さいきん〈反記憶術〉初期開発シリーズで話題にした、〈奇跡の人 the miracle worker〉や最後の晩餐における〈記念 remembrance〉という言葉の取り扱いもまた、言葉遊びの一種と言えます。
〈聖霊のトピカ〉初期開発ではまだ語っていなかったことですが、無限遠点から眼差す聖霊の全称的な判断に関わるACIMの術語には Holy という形容詞が使われているとぼくは理解しています。Holy Encounter, Holy Instant, Holy Relationship, そもそもの Holy Spirit も然りです。これは全体を含意する whole との音の近さを念頭においた言葉遊びが含まれていると思えます。
また、あなたはACIMに散見される逆説 paradox についても指摘しました。レトリック研究の世界では、逆説はアイロニー(Irony/皮肉)の一種であるとする説があります。言葉という制約のある用具立てで、この世界を超えた深遠な叡智をどうにかして表現しようとすれば、アイロニーという手法に頼らざるを得ないケースが多々あるのだと思われます。
志ん奇談の屋号は言葉遊びの精神を体現する
楽しくなってきました。あなたはほんとうに理解が早くて助かります。
そもそも、志ん奇談の屋号に含まれる志ん説、あるいは旧屋号の椿奇談の椿説にしても、言葉遊びの精神を体現したものと言えます。志ん説は新説や真説を含意しますし、椿説は言うまでもなく珍説を雅やかに謳うものです。
志ん説反記憶術的奇跡講座談義、略して志ん奇談という屋号は、日本のACIM界隈ではトップクラスの漢字の多さと、ふざけてるのか真面目なのか判然としない謎めいた屋号でひときわ異彩を放っていると、ぼくは自負しています。
なるほど!あなたの言うとおりですね。noteに連載している〈志ん奇談〉初期開発シリーズで足りなかったのは、この軽やかさなのかもしれません。
明確な言語化と審美的調和、そして諧謔の精神
あなたとの対話を通じて、反記憶術や聖霊のトピカの構想を明示的な言葉で表現すること。さらに審美的な側面を疎かにせず、連載に一貫した美的形式を備えること。主にこの二点に専念していたため、諧謔やユーモアの要素をいささか忘れかけていたかもしれません。
今回は、ACIM大喜利説という、一見突拍子もない話を、わりと真面目に論じてきましたが、その甲斐は大いにあったと言えますね。
終わりに
志ん奇談の〈反記憶術〉初期開発として始められた大規模言語モデルとの対話の第五回は、ここで終えることにします。次回もお楽しみに。
ではまた。無限遠点でお会いしましょう。