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それさえ叶えてくれたら、もう他には、何も要らないから。
「お母さん、覚えてないの?」
「おかあさん、わすれんぼうだなぁ」
長男の声は、不安そうだった。ちびの声は、面白がっているようだった。違和感を感じとる力は、年齢のこともあってか長男のほうがはるかに鋭い。
記憶の蓋が開く。脳内に流れ込んでくるビジョンが、全て私の作り上げた妄想ならいい。あれが現実だと証明されてしまっても、私は正気を保てるだろうか。振り子のように心が揺れる。数日後に控えている精神科の診療日が、どうにも恐ろしい。
*
今日はプライベートでとても嬉しいことがあった。詳しくは書けないが、息子たちの成長を目の当たりにした出来事だった。嬉しくて嬉しくて、思わず友人に連絡をした。友人は、我がことのように喜んでくれた。
私の痛みを自分ごとのように感じて心配してくれる人がいる。私の喜びを同じ温度で共に喜んでくれる人がいる。そういう“誰か”との繋がり一つ一つが、私の覚束ない足取りを力強く支えてくれる。
温かい。
ただ、そう思う。この温もりがあることが、昔の自分との大きな違いだろう。
気を抜くと踏み外してしまいそうな急な階段を、手すりもなしに恐る恐る登っているみたいだ。足が竦むのは、いつだって心が竦んでいるからだ。でもそんな私に、たくさんの人が「大丈夫」と言ってくれる。
「大丈夫」か「大丈夫じゃない」かは、実際のところわからない。それでも、今の私は根拠のない「大丈夫」にとても救われている。
自分で自分を信じることができない。息子たちとの会話さえ上手く噛み合わない自分に、不甲斐なさと恐怖を抱く。
記憶が欠けている間、私が眠っているのならいい。でも実際は、その間も私は“生活”を続けている。そういうときの自分は、果たしてどのような行動で、どのような言動なのだろうか。それがわからない。見えない。知りようがない。だから、信じることができない。
人に近づいたら、誰かを傷つけてしまうかもしれない。だったら、誰にも近づかなければいい。離れればいい。そのほうが、悲しい思いをする人を増やさずに済む。自制心を失った私が過去にしでかした行動を思うと、それが最善だと思った。
自分が苦しいからと言って、無関係の誰かを苦しめていいことにはならない。私が常日頃書いていることだ。虐待されたからといって、虐待してもいいことにはならないのと同じだ。これは私の問題だ。他の誰でもない、私自身の問題だ。他人に痛みを押しつけても、楽になんてならない。むしろ正気に戻ったとき、余計な痛みが増すだけだ。
どんなときでも理性を手放したくない。完璧な人間である必要はないし、強靭な精神を持つ必要もない。それでも、己のトラウマや弱さを、他人を攻撃する免罪符にはしたくない。
頼ることと寄りかかることは違う。
伝えることと投げつけることは違う。
ごくごく当たり前のこと。それなのに、人は簡単にその境界線を見失う。“人は”などと、主語を大きくするべきではないのかもしれない。“私は”、簡単にその境界線を見失う。
意識のある間中、全力で手綱を握りしめている。掌が擦り切れそうなほどに熱い。それでも、少しでも緩めたらあっという間に持っていかれそうで、歯を食いしばってぎゅっと握り続ける。奥歯がみしみしと痛むのは、おそらくそのせいだろう。
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