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文章は、人を刺すためにあるんじゃない。

近頃、Twitterのタイムラインに少し疲れてしまっている。誤解のないようにはじめに言っておきたいのだけど、私をフォローしてくれている方も、フォローさせて頂いている方も、とても優しい方が多い。まれに出会い目的や攻撃性の高い投稿、ⅮⅯをしてくる人もいるけど、それは本当に”まれ”だ。そしてそういう人を私はすぐにブロックするので、その人たちの投稿そのものがタイムラインに流れてくることはない。よって、フォローさんやフォロワーさん自身の投稿に疲れているわけでは決してない。

タイムラインというのは「いいね」を押したりリツイートしたりしたものも流れてくる場なので、フォローしていない方々のツイートもたくさん流れてくる。その中で見かけたものが気になって、自ら「どういうこと?」と思って情報を取りに行くこともある。見たら確実に良い気持ちにはならないだろう。そう思いながらも、つい読んでしまう。そういうときは大抵、自身の過去と何らかのカタチでリンクする出来事が関連していたりする。


結論から言うと、とある動画を見た。そして、それにまつわる記事を読んだ。見ない方がいいと頭では分かっていたのに、見てしまった。結果、フラッシュバックで吐いた。
記憶というのは、きっかけさえあれば簡単に深いところまで掘り起こせてしまう。普段は一生懸命鍵をかけて見えないように重石を乗せているものでも、それは自分の意志に反して容易に目の前に表れてしまう。今回に限っては、私の場合は自己責任だと思っている。見ればこうなることは分かっていた。分かりきっていた。それでも見ようと決めて見たのは自分なのだから。便器に顔を突っ込みながら、やけに冷えた頭でそう思っていた。


言葉の暴力で誰かが命を落とす。それを受けて不特定多数が不特定多数と新たな抗争を起こす。被害を訴えた人がいて、訴えられた人がいて、その真相は本人同士にしか分からないとはいえ、どう見てもその発言は人としてどうなんだと思わざるを得ないようなことを暴言混じりにぶちまける人がいる。それを見た人たちが、新たな暴言をネット上で拡散している。著名人のなかには、それを面白おかしく笑いに変えようとしながら擁護している人もいる。それに対してまた、誰かが「死ね」などと言う。

何が正しくて何が間違っているかなんて、もはや分からない。私にも、きっと誰にもそんなのは決める権利なんてないんだろう。ただ、何だか疲れてしまった。


私は、Twitterでもnoteでも、びっくりするほど人に恵まれた。みんな優しい。言葉を丁寧に扱い、何よりも人の心を大切にしてくれる。普段リプライやコメントのやり取りをさせてもらっている方々、記事を読みにきてくださる方々は、そういう人ばかりだ。だから、こういうものを続けて目に入れ続けることにあまり慣れていない。

ネットは、人を傷付けるために存在しているのだろうか。私はネットで出会った仲間たちにたくさん、たくさん救われてきた。でもそれは私がたまたま幸運だっただけで、傷付いて心や体を壊す人のほうが多かったりするのだろうか。もしそうなら、それはとても悲しいことだと思う。


人には、言葉がある。日本語は世界一ゆたかな言語と言われていて、豊富な語彙がたくさんある。強い言葉もあれば、優しい言葉もある。強い言葉が全部悪いものだなんて言うつもりはない。私自身、そういうものを使ったことはある。ただ、扱い方にとても気を付けている自覚はある。

人は、強い言葉を見ると反射的に注目してしまう。注目を集めるために、強い言葉を使う人が一定数いることも分かっている。繰り返しになるけれど、これは普段私がお互いに読ませてもらったり、読みに来てくれたりする人たちの中の誰かの話ではない。嫌な気持ちになるやり方で強い言葉を使う人を、私は絶対にフォローしない。そして、そういう人は私のこういう回りくどい説明を面倒くさがるので、続けて読みにくることもない。それでいいと思っている。ネットのなかでまで価値観の合わない人と無理に付き合う必要性を微塵も感じない。


強い言葉でなければ伝わらないものもあるだろう。私自身、被虐待児だった過去を文章にするとき、どうしても語気が強くなってしまう部分がある。それでも出来る限り、優しい言葉で伝えたいとも思うのだ。
人を抉る言葉を使わなくても、言葉は届く。人を攻撃しなくても、耳を傾けてくれる人はいる。強い言葉で権威を振りかざさなくても、丁寧に言葉を尽くせば人は心を寄せてくれる。そう思いたい私は、弱い人間だろうか。


父親に性的虐待を受けていたとき、私はそれに対してNOを言えなかった。介護施設の上司にセクハラを受けていたとき、キスをされても曖昧な笑みで返すことしかできなかった。針治療の最中に、針を身体に刺された状態のままで胸の先端を触られながら卑猥な言葉を言われたとき、私の身体は一ミリも動けなかった。
いずれも、相手が自分より上の立場だったからだ。もしくは、今抵抗したら命に関わるという恐怖が先だったからだ。NOを言えなかった私が悪いのだろうか。分かりやすい抵抗ができなかった私は、何も言う権利がないのだろうか。被害者側からしたら、何年経っても忘れられない、胸が焼けるような記憶。それでも、令和になってもまだ尚、「何年前の話だよ」と言われなければならないのだろうか。

これを書いている私は、怒りと悲しみのどちらが強いのだろう。どちらが勝っているのだろう。そして、これを書いて何がしたいのだろう。分からない。分からないけれど、こういうのはもう見たくない。被害を訴えるなと言っているんじゃない。被害を起こすなと言っている女性にしろ、男性にしろ、互いの「性」を食い物にするなと言っている。圧倒的な力を持っている人ほど、その力の強さを自覚して言葉を丁寧に扱ってほしい。それができない自分を正当化しないでほしい。どこの国の王様だとしても、世界一のお金持ちだとしても、絶対的な権力者だとしても、人を傷付けてもいい人間なんてこの世にはいない。

何の気なしの冗談が、相手にとっては恐怖でしかないこともある。立場が上の人からホテルに誘われたら、それが冗談なのか本気なのか分からない以上、どうにか笑いに変えて適当にはぐらかすくらいしか術がないのだ。それが、現実だ。

「そういう発言、気持ち悪いからやめたほうがいいですよ。あなたとホテルなんて絶対行きたくないです。セクハラですよ、謝ってください」

そう面と向かって言い切れる女性が、どれほどいるだろう。そして、それを言われて正々堂々と謝ってくれる上司が何人いるだろう。更迭、左遷、待遇下げを行われない保証がどこにもない以上、言えない人のほうが多いのは当たり前じゃないだろうか。勇気を出して苦言を呈しても、「大袈裟だ」と鼻で笑われて終わり。そんなもんだ。ずっと、そんなもんだった。


今現在ネット上で騒がれていることの真相がどうかなんて、私には分からない。私は当事者じゃないし、法律に詳しいわけでもない。だから、リンクも貼らない。名称も出さない。ただ、同じような被害に合ってきた女性たち(男性たち)が、この一連のやり取りに心を痛めていることだけは分かる。

ネット上での言葉の暴力を、先日私も受けた。それを記事にしたら、たくさんの人たちが怒ってくれた。悲しんでくれた。涙色の花束を手渡してくれた。寄り添ってくれた。そして、傷を塞ぐ言葉をくれた。だから私は命を断とうとは思わなかったし、翌日には正気を取り戻すことができた。

虐待のニュースもそうだ。見るたびに、正直抉られる。思い出す。
洗濯機のなかは、とても寒い。冷たくて、暗くて、狭くて、蓋を閉められたら真っ暗で、とても怖い。だから今でも、空っぽの洗濯機が苦手だ。必ず蓋を開けておかなければ落ち着かない。閉まった蓋のなかで、昔の自分が蹲っているような気持ちになる。だから、洗濯機の蓋はいつも開けておく。

情報が目から、耳から入ってくる。それにいちいち感情をさらわれていたら、正直持たない。だから、必要に応じて目を瞑る。そうして自分の心を保つ。でも、そのたびに思う。


昔の私は、ずっと心のなかで叫んでいた。

「誰か、見つけて」「誰か、タスケテ」

目を瞑る。そのたびに、昔の自分の声が聞こえる。


強さがすべて、人を守るために使われるものばかりならいいのに。振りかざして誰かを傷付けるのじゃなく、大切な誰かを守るためのものならいいのに。そしたら、涙を流す人はきっと減るのに。

まるい、柔らかい、優しい言葉がもっともっと広まればいいのに。そういうものを丁寧に丁寧に積み重ねていくことで伝えられるものほど真実なのだと、たくさんの人が知ってくれたらいいのに。

それは、そんなにも難しいことなのかな。私にはよく分からない。人を傷付けることのほうが、ずっとずっと怖い。だって、ずっと残るんだよ。自分がどんなに忘れようとしても、傷つけてしまった相手のなかに、刃を向けた自分の姿がずっと残るんだよ。そんなの、お互いに悲しいよ。


沈黙は金、雄弁は銀。それはたしかに真実なんだろう。それでもこうして書いてしまった私のこの文章が、また新たに誰かを傷つけたりするのかな。

何だか、色々なことが怖くなってしまった。でも、その”怖い”という感覚を私は捨てたくない。捨てたくないよ。だって、それを捨てた途端に、人を傷付けても何にも感じない人間になってしまいそうだから。そうなったら、私は書くのをやめる。


文章は、人を刺すためにあるんじゃない。人を救うためにあるんだ。



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碧月はる
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