あなたは、かけがえのない家族だから【第1話】『メロン』
プロローグ
健太からおばあちゃんへ
おばあちゃんは泣きました
ぼくがいなかへいったとき
ヨウキタ、ヨウキタ
といって泣きました
おばあちゃんは泣きました
ぼくがおうちへかえるとき
マタコイ、マタコイ
といって泣きました
おばあちゃんは泣きました
ぼくがでんわをかけたとき
アイタイ、アイタイ
といって泣きました
おばあちゃんはもう泣きません
とおいお国へゆきました
キタヨ、キタヨ
といっても泣きません
おばあちゃんから健太へ
優しい気持ち、いつまでも忘れないで
いつもお空から見守ってますからね
可愛い可愛い
大切な大切な宝物
健太……
1
健太は身震いした。北風が思いの外冷たかった。
夕方の商店街に来ると、健太はいつも興奮してしまう。それぞれの店先から漏れる威勢のいい声も、次第に買い物客で賑わう様も、たまらなく面白かった。いつしか寒さすら忘れていた。
健太は三歳、といっても、あとひと月足らずで四歳の誕生日を迎えることになる。
このところ夕方になると、商店街の果物店の店先に陣取って、店内を覗き込むのが日課になっていた。いつもは、ひと通り陳列棚の果物を遠巻きにざっと見渡すと、直ぐに帰ってしまう。だが、大晦日の今日は、おばさんたちの巨大なお尻に揉みくちゃに押し潰されそうになりながらも、その場に踏ん張り続け、一点だけを見つめた。
──メロンがない!
いつもの場所にないのだ。
2
メロンとの出会いは唐突だった。
今年の夏、父さんが会社帰りに連れて来たのだ。
ただいま、の声がしたとたん、玄関先まですっ飛んで出迎えた。
「お土産だぞー」
父さんの掌には丸い物がのっていた。笑いながら、それを自分の目線に掲げる。
──なんてヘンテコなボールなんだろう!?
細い紐でグルグル巻きにされていたのだ。おまけに、てっぺんにTの形の取っ手がついている。何に使うのか、見当もつかなかった。まったくもって不可思議なボールだった。
「お父さん、これ、なーに?」
腕を組んで、大袈裟に首を傾げながら訊いてみる。
「何だと思う?」
「ボールだよね? どうやって遊ぶの?」
全身に元気をみなぎらせた。自然と健太の声も弾んだ。
父さんは、目を大きく見開いたあと、楽しそうに笑いながら、「おいで」と言って台所に入った。何やら母さんと相談してボールを手渡す。と、健太を見下ろした。
「あとでお母さんに教えてもらうといいよ」
健太の想像は膨らんだ。胸いっぱいに膨らんだまま夕食を済ませると、一つ違いの妹の歩美とソファに座ってテレビを見ていた。が、何もかもが上の空で、目の前に浮かぶのはさっきのボールだけだった。
「健太、歩美、いらっしゃい」
母さんの声の方へ移動する。
ダイニングテーブルの上には、あのボールが置かれていた。それぞれ自分の席に座り、じっとそれに見入った。
父さんもあとから入って来ると、腰を下ろす。
家族皆でテーブルを囲んでしばらくすると、母さんは包丁を取り出した。
次の瞬間、健太は息を呑んだ。
母さんはボールの取っ手部分に包丁を入れた。取っ手は無惨にもシンクの中へ放り込まれる。
刃はボールを真っ二つに切り裂いた。割かれた断面を見た健太の目は、釘づけになってしまった。鮮やかなオレンジ色に心を奪われた。その衝撃を例える言葉など知らない。唯々、健太は虜になってしまったのだ。
更に、半分を四等分に切り分けながら、母さんは嬉しそうに健太と歩美を交互に見た。残りの半分は、ラップに包まれて冷蔵庫へ直行した。
皿にのって目の前に差し出された宝石が輝いている。
「これ、なーに?」
「メロンよ……さあ、二人とも食べなさい」
さっそく健太は皿に添えられたスプーンを取った。だが、電灯の光をはね返して眩しい艶やかなオレンジ色に、どうしてもスプーンは突き立てられない。美しい物を壊してしまうことが憚れた。
父さんは、嬉しそうに「おいしい」を連呼しながら、あっという間に平らげてしまった。
歩美も口をもぐもぐさせながら満面の笑みだ。
「食べてみて」
母さんが優しく声をかけてくれた。
その声に押されるようにスプーンで最初のひと口目をすくい取ろうとして、ためらった。また母さんを見ると、笑顔で頷いてくれる。健太は勇気を出して、スプーンを宝物に差し込んだ。スプーンいっぱいにのったメロンの一欠片を恐る恐る口へと運ぶ。胸がドキドキして、口元にぶつかって逃げられた。もう一度、注意深く試すと、今度は口の中にうまく放り込むことができた。
頬張ったひと口目は、健太を幻想の世界へと誘った。噛むほどに口いっぱいに果汁が広がった、かと思えば、匂いは鼻に抜ける。その甘さに胸が温かくなる。いつまでも幸せな気分を味わいたくて、次から次へと頬張った。目前の魔法の果物は、健太の幸せと引き換えに、瞬く間に消えてしまった。
翌日の夕食後も、残りの半分を母さんが切り分けて皆の前にメロンは置かれた。
歩美は皿が置かれるや、さっそくスプーンを動かして口をもぐもぐさせると、直ぐに自分の分を平らげてしまった。その歩美の幸せそうな顔を見ていると、健太も胸が熱くなる。目の前の手つかずのメロンにスプーンを入れようとして途中でやめた。健太はいっとき考え込んだ。
──これを食べたら、ぼくはほんとうに幸せな気分になる……
──でも……
健太はスプーンでメロンの一角を削り取った。それを歩美の口元に近づける。
「あーんして……」
半年前に天国へ旅立ったおばあちゃんの口真似をする。歩美は口を開けて頬張ると、キャッキャと声を上げて笑ってくれた。健太は嬉しくて堪らない。
健太のメロンは全部歩美の幸せな笑顔に変わった。そんな歩美を健太は抱き締めてやった。すると不思議なことに健太も幸せな気分になったのだ。
それ以来、健太は、またいつか、歩美のあの幸せそうな顔が見たい、と願い続けた。
「お母さん、また食べようね」
健太がせがむと、母さんはちょっとだけ困った表情を見せた。
「安くなったらね……」
しばらく黙り込んでから、微笑みながら返答してくれた。
──そうか、あれは特別なメロンなんだ!
──あんなに甘くておいしいんだもの……
3
健太は今年のお正月の光景を思い浮かべた。家族皆でお節を囲んで楽しい時間を過ごした。
──そこにメロンを添えると、どんなに幸せなんだろう?
初めてメロンを口にした時から、メロンに恋焦がれ、毎日、お正月が来るのを待ち侘びるようになった。そして、とうとう今日は大晦日だ。明日は待ちに待ったお正月なのだ。
健太の夢は叶うはずだ。
「おっ、坊や、来たね」
ようやく、店主は健太に気づいてくれた。
店主の不意打ちに驚くと、もじもじし始めた。だが、店主はそれっきり、他の客への応対に忙しく、自分の相手はしてくれない。
仕方なくその光景を眺め続ける羽目になった。しばらくすると、痺れも切れてくる。
「おじさん。おじさーん」
店主は忙しなく店内を行ったり来たりするばかりで、健太の声も届かない様子だ。「メロンは、どこ?」そう言おうとしたが、どうしても声が出なくなった。そこで、健太は幾度も深呼吸を繰り返した。思い切り息を吸い込んで胸を突き出し天を仰ぐと、腹の底から一気に声を吐き出した。
4
「くさったメロンくださーい!」
健太は前のめりになる。
店主も、その場に居合わせた数人の客も、あまりの大音量と意外な言葉に、一斉に健太の方を向いた。
「えっ! 坊や。腐った……?」
「そうだよ。くさったヤツだよ!」
得意げに胸を張る。店内から客の笑い声が漏れてくる。が、なぜ自分の方を見て皆笑っているのか分からない。
「坊や、うちはね、腐ったメロンなんて置いてないんだよ」
店主は笑いながら健太の傍へ歩み寄ると、中腰で健太の目線になった。「ねえ、どうして腐ったメロンなの?」
「コレ!」
健太は茶色に変色したバナナのひと盛りを指差した。「このバナナくさってるでしょ。だから、まっきいろのバナナよりやすいじゃないか。だから……」
「ああ、そういうことか。ねえ、坊や。これはね、腐ってるわけじゃないんだよ」
「これ、くさってないの?」
「そうだよ。腐ったものはお店には置かないんだよ。食べられないからね」
店主の顔を見つめながらいっとき考えると、鮮魚店を指差した。
「くさってもタイって言ってたよ。ウソなの?」
「参ったなあ……」
店主は帽子を脱いで頭を掻き掻き、笑いながらしかめっ面をする。
その様子に、いけないことを言ってしまったのだろうか、と健太の胸は痛んだ。
「じゃあ……くさったメロンも……ないの?」
「そうなんだ。そんなメロンもないんだよ。それにね、うちは季節の果物しか置かないから、もうメロンは……来年にならないと……ないんだよ」
「えっ! メロンはないの?」
「ごめんね」
店主は健太の頭を優しく撫でてくれた。
「ちょっとご主人、いいかしら?」
店の奥から、甲高い女性客の声が健太の耳に飛び込んだ。
「はい、ただいま!」
店主は威勢のいい返事をすると、その客の方へと小走りに、健太の目の前から消えてしまった。
5
健太はズボンの右ポケットの中に手を突っ込むと、数枚の百円硬貨を握り締めた。仕方なくその場を離れ、うな垂れ気味に歩き出した。
しばらく行くと、歩道橋に差しかかった。手すりにつかまり階段を見上げる。フウッと一息ついてから、一段ずつ踏み締めながらゆっくりと上り始める。
やっとの思いで一番上まで来ると、人の邪魔にならないように端っこに腰を下ろした。両肘を膝の上に乗せ、両手で頬杖を突いた。
ふと階下を見た。見知らぬおばさんが上って来る。健太の横で一旦立ち止まると、笑いかけてきた。
「あら。ぼく、どうしたの?」
健太はおばさんの顔を上目遣いに見ると、さも大袈裟に溜息をついて見せた。
「まあ、可愛いわね、フフフ……」
おばさんはとても楽しそうな顔で、この頭を撫でてくれながら去ってしまった。
健太は頬杖を突いたまま、真っすぐ正面を向いて遠くの山を見据えた。
夕日が山の稜線を掠め、まさに沈もうとしている。赤々と燃え立つ落日を健太は息を呑んで見送っていた。
丸くて真っ赤で、頬張れば甘そうな夕日に目は釘づけになる。
そして、もう一度だけ、大きく溜息をつくのだった。
6
歩道橋の階段の一番上の端っこに腰を下ろしたまま、健太は夕日を見つめ続けた。
夕日に家族の姿が映し出された。まるい窓の向こうを覗き込むように、中の様子をうかがう。皆、幸せな表情を浮かべながら、メロンを頬張っていた。あの日の幸福な気分が健太の胸に蘇る。
家族一人ひとりの顔が、丸窓から覗いた。
父の顔。
母の顔。
祖母の顔。
最後に、歩美の顔が笑った。
──もう、あの日は、二度と帰らない。
──家族とかけがえのない時を過ごした、あの日は……
去年の秋、歩美を嫁がせた。
思慮深く優しい女性に成長を遂げた妹は、幸福な家庭を築いてくれることだろう。
「これで、一区切りがついた……」
健太の張りつめた肩の荷は下り、安堵したとたん、郷愁が胸を襲った。居ても立ってもいられなくなり、正月休みを利用しての帰郷なのだ。
両親とも既にこの世を去った。墓前で歩美の結婚報告をしたのち、ふらふらと商店街を彷徨い歩きながら、足は自ずと歩道橋に向いていた。兄妹二人きりで、世間の荒波に小舟を漕ぎ出して以来、手と手を携え、紆余曲折を経てようやくここまで辿り着いた。
二人して歩んで来た道のりに思いを馳せつつ、夕日を見つめた。
急に北風が強まり、コートの襟を立て顔を埋める。が、煌々と燃え立つ夕日は、健太をいつまでもあたたかく照らすのだった。
「歩美、幸せになるんだよ」
〈了〉
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