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2025年も、◯にする

あけましたね。
サムネは実家の玄関の飾り(母のハンドメイド。すごい)です。

2024年の私は厄年に相応しく(嬉しくない)、謎にめちゃくちゃ病院に通いながらも(いろんなお医者さんと仲良くなったよ)、満身創痍になりつつ日付超えるまでミーティングしたり、忙しくも楽しい悲鳴な毎日でした。

『はるお、ドジで命を落とすなよ』と友だちからいつも言われていたので、厄年の2024年は本当にいつどうなるかと思っていましたが、なんとか生き抜きました。

ずっと前に友だちから書いてもらったやつ。

みなさん、今年もよろしくお願いしますね。


2025年と言えば


2025年ですね。今年はどんな1年になるかしら。

2025年問題、という言葉を聞きながら看護学生時代を過ごした私。この10数年、看護を学んで、看護師として少しだけど働いてきて、時代は『死なない看護から、生きててよかったと言える看護』へシフトしているのではないかと感じています。

学生時代の経験から人生の最期のケア〈ターミナルケア〉の世界に踏み出した私ですが、ターミナルケアのためにはプライマリケアが必要だと考えるようになりました。さらに最近は、グリーフケアに必要なプライマリケアもあるな、とも思うようになりました。

寂しいこともたくさんあった去年

去年はなんだか、色々なところから訃報を聞くことが多かったです。私が歳をとったからなのか、はたまたタイミングなのか、分からないけど。決して埋まらない「誰か」の存在がぽっかりと心に隙間を作って、寂しくなるねと言っても返事が返ってこない経験が増えた気がします。

天国のあの人からもらったアメジストの指輪。
でかすぎるよ。

大切な誰かを失うことや、自分自身がいずれ迎える死。人間として生きていくうえで、どちらの瞬間も避けては通れない。

だから、いつか最期を迎える自分の人生のこと、いつか別れがくる大事な誰かのこと。見つめて見つめて、生きてる今しか見つめられないから、大事に見つめて。

最期を迎えるとき、後悔のない人なんていないと思う。でも、「とは言え精一杯やったぞ」と言えたら、きっと最期に対して、少し優しくなれるんじゃないかな。


今日がマルになるように

いつも親切なあの人に、今日もありがとうってちゃんと言えたかな。迷惑かけちゃった人に、怖くても話しかけて、ごめんなさいって言えたかな。大好きな人たちに、大好きだよって伝えられているかな。自分のこと、ちゃんと大事にできてるかな。やりたいこと、やりたいって勇気を出して言えたかな。今やれることを、後回しにしてないかな。

…と、こんなことを書いている私こそが、全然出来てません。私もすごく不器用だし、面倒くさがりだし。すぐ怠けるし。今はいいや、って思っちゃう。でも、「やろう」という決意も込めて、ここに記しておこうと思います。
今日を生ききれたかな?と、自分に毎日問いかけて。
でも、毎日花丸を目指すと疲れちゃうから、せめて今日という日にマルをつけられるように。そんで、たまには花丸をつけられるように。

私はプレゼントが好きです。誰かに贈りものをするという行為そのものはもちろん、その過程も含めてすべて。たまには自分に贈るのも、また素敵ですね。あと、英語のpresentには〈現在〉という意味も含まれているところも好き。
今日という日を、プレゼントを大切にできるこころを持って、毎日にマルをつけていきたいですね。

🎂

というわけで、みなさん、今年もよろしくお願いします。

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