コンテンツを摂取するだけの生き物。
わたしの周囲には創作や芸術をおこなう人が多い。家族はみな絵を描く・描いていたし、友人も楽器を引いていたり動画を作っていたりと、とにかくなにかを作っている。
わたしも中学生の頃、休み時間に友人がノートに小説を書いているところ目撃して衝撃を受けた。それまで小説は読むものであって自分で書くものという認識はなかった。彼の影響を受けて小説を書き、互いの作品を読み合い表現や描写について語らい、未完のままだがリレー小説などの書いた。それらは今でもどこかに仕舞われているはずだが、読む勇気はでない。だが捨てるようなものでもない。傍からみればただのノートでも端から端まで文字で埋まったノートは過去の自分の熱量の証明のように思えるのだ。
いつからか熱量を失った、もしくは冷めてしまったように感じる。なにかを書きたいと思うことは多々あれどいざ書こうとすると手が止まる。中学生の頃のような話の整合性も展開も気にせずただ文章を書く感覚をいつの間にか手放してしまっていた。高校生の頃も夜通しガラケのメールの文字上限まで文章を書いていた。フリック操作などないガラケのボタンでよく書いたなと思える。今でも当時書いた小説やキャラには思い入れがある。だがその思い出に浸って美談に仕立て上げようとしている、もしくはすでにそうしてしまった今の感性がほとほと嫌になる。過去にすがるのは現状に満足ができていないのに、なにもできていないことの証左にほかならないからだ。過去は反芻するたびにキレイになっていく。回顧のつもりが気づかぬうちに懐古になっていて、それを懐かしむだけで今になにも反映できていないのだ。思い出を振り返るたびに磨き上げて、次に懐かしむためだけのものにしてしまっている。
図体がでかくなって余計なことだけ考える頭になって、でも現状に変化を及ぼすことはなにもしなくて、ただひたすらにコンテンツを摂取し続けるだけになってしまった。
まだ映画の感想やこういうずっと思っていても言語化してなかったことを書いているだけ、多少なりとも前に進んでいると思いたい。
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