今必要なのは成人の教育だというお話
『日本人の勝算』を書いた、デービット・アトキンソンの記事。
とても感動。とても嬉しい記事でした。
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https://toyokeizai.net/articles/-/273079
[抜粋1]
それは私自身、日本の教育制度が日本経済の衰退の主因であるという考えには、疑問を持っているからです。
理由は2つあります。1つは、そもそも言われるほど日本の教育が悪いのか、悪者に見えるだけではないのかという疑問です。もう1つは、そもそも日本の教育の問題点は、子どもの教育ではなく成人の教育にあるのではないか。要するに、人生100年時代の日本で、教育の対象が間違えて議論されているのではないかという疑問です。
[抜粋2]
私が子どもの頃、イギリス経済はどん底の状態にありました。
(中略)
その当時、イギリスでは経済衰退の犯人探しが盛んに行われました。国民性、教育、政治、労働者の質と、なにもかもが犯人にされ、もうなにもかもがダメだという諦めムードが蔓延していきました。しかし、「これさえ変えればよくなる」という提言もあふれていました。今の日本とまったく同じです。
(中略)
このイギリスの経験からすると、経済がダメだから教育がダメと言われるのか、教育がダメだから経済もダメになっているかという因果関係をしっかりと検証する必要があります。しかし、今の教育改革論は、いかにも日本的な感情論、感覚論にすぎない可能性が高いのです。
[抜粋3]
日本の教育は、言われたことを忠実に守る、いわば兵隊を作ることに関しては、すばらしい成績を出していますが、リーダー教育は非常に遅れています。
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日本の学校という組織がどれほど法律やそれに準ずる資料の山で縛られていて、目的や目標すら自分たちで決めることができないことは、ご存知の方が多いと思います。
その中で、今まで「いい教育はA」と言われていて一生懸命それを遵守してきた先生たちが、最近になって「本当は正しいのはBでした」と言われて、苦しんでいる先生たちの様子も見てきました。
私もBがいいんだ!と思って事例を自分で作ることをやってみた時もありました。
でも気がついたのは、Bを極めても、またCがやってくるんですよね。
Cになった時に、今のままの体制ではまた同じことを繰り返してしまう。
さらに、先生たちは国がビジョンを変えたり、新しい教育だなんだと言って、実行されないことに慣れ続けていて、「また言ってる」としか思わなくなってるそうです。
いろんな省庁が教育に口出している今、本当に尖らせていくことは何なのか、この船頭多くして…状態をどう脱出するのか、そこを整理しなくては、現場の教員からすると「また梯子を外される」と感じてしまうのも無理もありません。
たしかに、今の学校教育が一般社会から大きくかけ離れ、アップデートされてこなかった、いわば「遅れている」というような状況を生んでいるのは確かで、でもそれには構造的な問題があるのであれば、アップデートしてもまた「遅れ」を繰り返してしまう。
ドラッカーも、予算型組織は「すでに行っていることは高潔であるに決まっており、公益に合致するに決まっているとされている。」と言っている通り、構造的に前年踏襲であり続けることが正であった学校において、VISIONや目標を掲げて、生産性を意識すること自体が不自然であった。
ならば構造的にどこに問題があるのか、どこに改善策があるのか、ただ単にコンテンツを、新しくすることよりも、構造をアップデートしないと古いOSでは、耐えきれないと思っています。
でもそれは誰の仕事かというと、現場の教員の仕事でもない気もしています。
もう一つ言えることは、今の学校教育はなるようにして今の形になっているし、それは決して誰かが怠けていたわけでも、悪い方向に導いていた結果でもないということ。
私が知る限り、先生たちは常にまじめに、身を粉にして働いてます。
だから既存の教育を肯定することから私は始めたいし、今までの教育を作り上げた人たちを最大にリスペクトしつつ、新しい文化の形成にチャレンジしたいと思っています。
ちなみに、「成人の教育が大事」という話。
同じ会社で、同じ尺度で、同じ価値のみを追求していると、生産性も下がるし、イノベーションも起こらないというのは、最近授業でもよく言われます。
すごく組織内の基準では前に進んでいるように見えて、外から見ると同じ水槽の中をぐるぐる泳ぐ金魚のように見えてしまうらしい。
うん。
だから社会人になっても学ぶことは大事なんだと、自分に言い聞かせて、夜な夜な課題に向かいつつ、集中できずにブログを書く。