017

芳明の風景 祈り

「龍宮城へ、もう一度行ってくる」
 彼女がある日、そう言い出した。
 あの日歩いた七〇キロ近い道のりを、ふたたび歩くのだという。
「どうしてなの?」
「キヨさんが言っていたことの意味が、やっとわかったの。
『地球に足をしっかり付けて、自然とつながって、もっと世界を知りなさい。それから行動を起こすんだよ。
 自然を知らない人間が世界を変えようとしても、もっと混乱するだけさ。問題の解決方法はそんなところにはないよ』って、軽くキヨさんが言った言葉が、今頃になって甦ってきたの。
 すべてはひとつだって考え方で世界を眺めてみるとね。人間ひとりひとりが、その身体の中に限界のない宇宙を持つ存在だと仮定するとね・・・」
 彼女は、そこで口を閉ざしてしまった。
「どうしたの?」
 しばらく黙って考え込んでしまった。
「あのね、芳明。わたし、変な話しをするよ。
 ほんとうにすべてがひとつだとすればね、ひとしずくの水が世界を変えてしまうことだって、あると思わない? たったひとしずくの水が、世界を変えてしまうことだって出来るはずなんだよ」
「ひとしずくの水? どういうこと」
「わたしたちはこの宇宙の中に存在するひとしずくの水みたいなもので、きっとこのこころが感じていることは、目には見えない波紋みたいなものを作りだして、世界に影響を与えているの。
 もし、『声』が言うように、あきらめのしずくが世界をこんな風にしているならば、それを上回る希望のしずくを宇宙に放ちつづければいいんじゃないの?」
 実際は、どうなのだろう。そのことを検証することなんて、僕らにはできやしない。自分自身の身体の中に宇宙のすべてがあるなんて。
「ほんとうに、すべてがひとつだとすれば、か」
「あきらめでできた世界を、希望に塗り替えたい。そのためにまず、わたしの絶望を希望に変えるの。そして、わたしは地球みたいに大きな希望と一緒に生きていくよ。
 世界を癒そうと思う前にね、そんな大きなことを考えるその前にね、自分自身を癒さなければならないのよ。わたし、やっとそのことに気づいたんだ」
「感情や傷や痛みをすべて乗り越えて、やさしさにかえる。世界を美しくしようと思う前に、自分のこころを美しくする、かあ」
「芳明?」
 彼女はなぜか驚いたように、大きな目をさらに丸く大きくして僕を見ていた。
「こころの中の傷を癒すためには、やさしさだけじゃなく、厳しさも必要になるんだよ。
 誰もが抱えている、こころの中の忘れたいこととか、目をつぶってきた妥協の歴史の数々、あきらめた夢。そういったことを全部思い出して解決していけば、世界も自然にかわっていくんじゃないかなって思うんだ」
「いつの間にキヨさんの秘伝を学んだのよ」
 そういって最高の笑顔で、彼女は僕を照らした。
「わたしは、自分を信じてみることにしたの。世界の崩壊を止める方法なんて、意外に簡単なことなのかもしれない。それを、ちゃんと知りたいの。自分の身体で、知りたいの。
 自分を愛する方法なんて、どうしたらいいかわからない。でも、知りたい。ほんとうに知りたいの。
 わたしはすべてを取り戻す。わたしの傷を自分で癒して、それから世界と向き合うために。
 龍宮城に行ってくるよ」

 祈りとは、こころを光のチャンネルにチューニングすることだ。誰かになにかをお願いすることじゃない。こころの中に存在する大いなるもの、それに気づくことが難しいから、媒体を通じて再確認をする。祈りには、場所も方法も関係ない。
 大いなる存在を感じる、きっとそのことが重要なのだ。
 それは、その生き方を通じて、彼女が僕に教えてくれたことだった。


FILE 天と地の交歓

「死にたいっていう気持ちがなくなることはない。それはきっと生きている限りずっとつきまとう感情で、そのことと同じくらいの強さで生きたいという想いがあるのだろう。
 今でも手首をかききって血を吹き出させる想像をする。そんな想像をしてはダメだダメだって、ずっと思っていた。
 けれど、そう思うことも自然なことだと、やっと受け入れられるようになった。
 死への強烈な渇望は確かに存在している。けれど、それ以上の強さで生きていこうと思えるようになったから」
 こころに浮かんできた想いをノートに書き殴った。この旅に出かけるとき、芳明と一緒に入ったコンビニで買ったノートだ。この旅で感じたすべてのことを、浮かんでくる言葉を、漏らさずにこのノートに書き記してゆこう。


芳明の風景 

 より純粋な、まばゆい光を見たとき、人は自分の中の闇を見つけてしまう。
 やり残してきた、閉ざしてきた感情の澱が光のもとにさらされたとき、さらけ出させたものに逆恨みをし憎悪を抱く。
 純粋なものを壊したくなるという衝動は、バランスを崩したこころから生まれる。
 強すぎる光に当たっておかしくなるのは、準備が整っていなかったに過ぎない。それは善でも悪でもなく時の問題でしかない。手が届かないと感じたそのとき、それに届こうと努力するもの、すねて汚そうとするもの、光さえも見えないもの、混沌の中にさまようもの。
 僕はどうなんだろうか。彼女の放つ光を受けて、僕もまたその光になろうと努力をしているだろうか。それとも、どこかで彼女を汚そうとしているだろうか。
 あの頃の僕が、光に手を届かせる方法はなんだったんだろう。僕には待つことしかできなかった。
 いつもいつも、彼女のことを祈り、そして待つことしか。
              *
 彼女が龍宮への道を歩くと言い出したとき、僕はどうしても止めたいと思った。そんな大変なことを、なぜもう一度する意味があるというんだ?
「こころの傷を癒して、世界と向き合いたい」
 真摯な瞳でそう告げる彼女の想いを、僕に止めることなどできるわけがなかった。
 それほどまでの強い信念を持って生きている彼女をまぶしくも、うらやましくも思った。
「地球の負担を軽くしたいの。わたしの中の傷がこの惑星を傷つけているのだとすれば、わたしはその傷を癒したいの」
 地球を癒すために、自分自身の傷を癒やすなんて聞いたこともない。みんな自分のことで精一杯だというのに。彼女の視点は普通の人とはひっくり返っている。彼女の中ではまず地球があってその次に彼女が存在しているようだった。
「あっ」
 急になにかに気づいたかのように声を出した彼女は、そのまま黙り込んだ。瞳をきょろきょろさせながら、何かを想っているようだった。
「許しなさい。愛しなさい。幸せになりなさい。そういう意味だったのね」
 僕は表情だけで彼女に問うた。
「芳明。きっとできる。
 まだはっきりとはわからないけれども、その旅でわたしは見つけられると思うの」
 彼女が決意したのならば、僕はそれを見守ることしかできない。
「僕も一緒に行くよ」
「ごめん、どうしてもひとりで歩きたいの。お願いだから、待っていて。芳明、夜は必ずここへ帰ってくるから。大丈夫、もう心配しないで」
 彼女は、龍宮への道をともに歩くことはゆるしてはくれなかった。きっと、そう言われるだろうということがわかっていながらも、僕はついて行くと言わずにはいられなかった。
 そして彼女は歩きはじめた。たったひとりで。

 朝日が昇る少し前に起き出して、太陽と自然の美をたたえて感謝をし、足を踏み出してゆく。太陽が沈む頃に目標地点まで達すると、彼女はバスで戻ってくる。そして、明日のためにひたすら眠り、また昨日の地点までバスに乗って出かけてゆく。僕にできることは、そんな彼女を見送って、そして出迎えることだった。
 彼女の到達点には一体なにがあるのだろう。龍宮の海に着いたとき、彼女になにが待ち受けているのだろう。
 もしも、世界が僕の想いでできているのならば、僕にできる最大のことは、彼女の道のりが平坦で幸せに満ちあふれたものであることをイメージしつづけることだ。すべての自然が彼女を守り、行く先々で導いてくれている。そして彼女が笑顔でいること想いつづけよう。それが、現実となるように。
 けれど正直なことをいえば、僕のこころの中ではポジティヴな想いとネガティヴな想いが波のように重なり合ってゆらめいていた。
 この歩みが彼女を変えてしまうのではないか。僕の手の届かないところへ、どこか高貴な世界へと行ってしまうのではないか。そんな不安が僕を苦しめていた。過去の傷を癒し、自分を好きになるために、歩いていこうとする彼女。彼女が生まれ変わったとき、僕の隣にいることを望んでくれるのだろうか。
 彼女がしあわせでいられる世界をイメージしつづけることが、彼女を支える唯一の方法だと知りながらも、僕は葛藤しつづけていた。
 くねくねと曲がった道でもただひたすらに自分の信じた道を歩きつづけてゆく。そんな彼女の背中を眺めながら、あの頃の僕は、僕の不甲斐なさと弱さを痛感するばかりだった。
 
              *

 そして、僕はいまだにわからない。
 このファイルを僕に『今』送ってきた理由は、一体なんなんだ?


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