018
FILE 美
昨日歩いた道をバスが進んでゆく。一日かけた道のりも、バスで走ればほんの一瞬だ。けれど、わたしは歩いてゆく。想いを運びながら。大地を踏みしめて、天と地を眺めながら、一歩一歩。
海岸で白いサギがおひるごはんを食べていた。砂の浅瀬が太陽を浴びてきらめいていている。わたしは足を止めてその様子を眺めた。細い足をひょこひょこ前へくり出して、首を振って魚を探す。遊ぶように踊るように水辺でエサをついばんでいる。お目当ての魚を見つけると、首の動きが加速する。おだやかな波と、一羽の白鷺。幸せな午後。
涙が急にあふれてきた。
「なんて世界は美しいのだろう。あのときと同じ道を歩いているはずなのに、あのときもここを通ったのに。
こんなに美しい光景を想像することもできなかった」
幸せを味わうためにすべてが存在しているかのように、すべてが調和され豊かでよろこびに満ちていた。
「許しなさい、愛しなさい、幸せになりなさい」
わたしを導いてきた『声』は、これまでわたしに何度そのことを伝えてくれただろう。あらゆる場面で、表現を変えながらも、たくさんのメッセージを伝えてきてくれた。その根底に流れているのは、いつもそのことだった。今、輝きの中で、わたしはようやくそのことの意味を知る。
許すことも、愛することも、幸せになることも、すべては自分と深く向き合うことでひらいてゆく。
「すべては、わたしの中に在るのね」
「お前が抱えている傷を癒してゆかない限り、地球は輝かない」『声』は、それを慈愛とともに教えてくれた。どれだけ世界が輝いていたとしても、目をつぶっていれば、それを見ることはできない。
ほんとうは、傷なんてないのかもしれない。ほんとうは、解決するべき問題なんてないのかもしれない。傷や問題を抱えていると思っている、その意識をぬぐい去ってしまえばいい。たったそれだけのことかもしれない。
生命は不完全なもの。人間も、地球も、宇宙でさえも。そして、完全を求めてさまよい貪欲に成長しつづけるからこそ、すべての生命は美しい。
善も悪もないんだよね。今の世界はただバランスを崩してしまっているだけだよね。
必要なのは、調和。それを、取り戻すことだけに意識を注げばいい。なにかを否定したり、なにかと争ったり、もうそんなことはいらない。
そのことに気がついた人から、それを戻してゆけばいい。ただただ、幸せに生きてゆくということを選びながら、愛から沸いてくる力を使えばいい。
疲れた身体をバスに投げ出して、心地よい揺れに身をまかせて眠りにつきながら、すっかり日も暮れた頃にキヨさんのおうちへ帰り着くと、芳明がわたしを迎え入れてくれる。
「今日はどうだった」とか「どこまでいったの?」とか「どんなことがあったの」とか、そんな言葉はなにひとつとしてなく、ただただ「おかえり」といってくれる彼。ほんとうは、その日一日の出来事を聞きたいのだろうけれど、わたしを気遣いなにも質問をしない彼の優しさが、こころだけではなく身体にしみた。
わたしの祈りの道は、ただひたすら歩きつづけ道を進み、そしてバスで戻るだけのものではない。この家に戻って、互いの一日を無言で共有することも、すべて。
彼の無垢な愛情に包まれてここまで歩いて来られたのだということを、彼がひらく扉の向こうにわたしは知った。
彼の優しさにあぐらをかいて、これまでにたくさんたくさん芳明を傷つけてきたのかも知れない。
小さな浴槽に頭まで浸かりながら、そんなことばかりを考えていた。
人が人を想う気持ちや、自然の雄大でいて繊細なやさしさや、ふとすれちがう見知らぬ人の小さな親切が、細胞にしみてゆく。それは幸せであり、わたしを満たすものであり、かつ軽い恐怖をともなうものだった。
わたしは周囲の人や自然に対してそれだけのものを返せているのだろうか。与えられたものを、きちんと返していられているのだろうか・・・。
芳明の風景 確信
あの時、僕にできたことといえば、ただ彼女の無事を、一歩一歩前へ進む道のりが平坦であることをイメージしつづけることだけだった。
液晶画面に映し出される彼女の素直な感情のすべてに、僕は表現しようのない感情を抱いていた。彼女があの道を歩きながら思っていたこと、内面でやりつづけていた過去の整理、そして僕への想い。純粋で前向きな魂。彼女が求めつづけて歩いてゆく中で生まれる葛藤のすべてを僕は愛した。
胸が熱い。この熱い鼓動は、恋をしているときのドキドキではない。これが彼女の言う、光なのだろうか。彼女の純粋なる魂に触れて、僕の魂も躍動をはじめていた。
あの祈りの三日間、僕も彼女の祈りとともに在りたいと願った。それが僕のはじめての自発的な、そしてこころの底からの祈りだった。世界を想って歩きつづける彼女の祈りのスケールとはちがって、僕の祈りはあまりにもちっぽけで個人的なものだ。けれど、彼女の無事を祈りつづけた三日間の祈りは、僕にとって地球を揺るがすほどに重要なものだった。それは、地球が存続することを祈るに等しい。
部屋に戻ってきた彼女は、身体は疲れていても、とてもいい顔をしていた。不思議なことにたくさんのエネルギーを使っているはずなのに、出かける前よりもエネルギーがみなぎっているようにみえた。
ぽつりぽつりとこぼれる彼女の言葉は、僕にたくさんの気づきをもたらした。