徹也の風景 母  011

「ほんとうに大事なものは、お前の心の中に在るんだよ」

 徹也が唯一愛し愛されたおばさんは、いつもそう言っていた。
 父と母が離婚したのは徹也が12才の時だった。沖縄出身の母は徹也を生んだあと、馴れない東京の暮らしに疲れはてて、精神を病んでしまった。父はそんな母をあっさりと捨て、泣いてすがる母から徹也の親権を奪うと島へ追い帰してしまった。しかし1年もたたないうちに、そう彼が13才になって間もない頃、父はふたりで暮らしていた家から突然いなくなってしまった。

 ある朝、父はいつもとなにもかわらない顔をしていつものように家を出ていった。彼は学校に行き、帰ってきて、テレビを見た。夜遅くなっても、何時になっても、父は帰ってこなかった。
「お父さんはどうしたんだろう。事故にでもあったの? なぜ帰ってこないの?」
 ぽつんと家に残された彼は、ぼんやりとキッチンの床に座っていた。心配で不安で、何もわからないままに、ゆっくりと時は流れてゆく。母は沖縄でどうしているのだろうかと思いを馳せ、それよりなにより父はどうしたのだろうかと考え続けた。
 ゆっくりと時は流れ、「父の不在」という漠然とした空白だけが力を増してゆく。静かに夜が更けてゆくように「もう父は帰ってこない」という直感だけが彼を包んだ。抗い難い脱力感が彼の心を蝕んでいった。なにかを食べることもできず、泣くことも父を恨むこともできずに、徹也はただ座っていた。
 どの部屋も薄暗くて寒くて、どこにいることも苦しくて、家にひそむ虚無に魅入られるのが恐かった。ほかの家族のいなくなった大きな家からは、家中の電気をすべてつけても暗闇を消し去る事はできなかった。
 キッチンにだけは、母のぬくもりというものがかすかではあるけれど残っているような気がした。彼はいつしか、家の中でそこだけがほんのりとあたたかいキッチンで眠るようになっていた。
 お金だけは、いつもの隠し場所の中にどっさりと残されていた。徹也は学校にも行けず、どこにもいけず、食べるものもなく、誰とも話さず、なにかをしようと思うこともなかった。
 帰ってこなくなった父と、いなくなった母に思いをはせた。キチガイと呼ばれ、家を追い出された母の行方はだれも教えてくれなかった。タオルケットをかぶって、たった一枚しかない母の写真を握りしめた。「キチガイ女」と吐き捨てるようにいう父が、この一枚以外はすべて捨ててしまった。
 彼はただただ、何日も何日も待っていた。戻ってくることのない父を。戻りはしない家族の時間を。不可抗力で目の前から過ぎ去っていく愛しい者たちを。追いかけることもできずに、ただただなにかがやってくるのを待っていた。
 彼がその数日間やっていたことは、何かが過ぎ去り何かがやってくるのを、ただキッチンに寝ころんで待っているということだけだった。

 そしてある日、その人はやってきた。
 壊れたインターホンを押すガチャンガチャンという音がして、それが壊れている事に気づいたらしいその手はその次にガラス戸を叩きはじめた。うるささに耐えかねた彼は玄関に行き、キーキーと音を立てながら引き扉を開けた。
「こんにちは」
 そこには、彼の知らないおばさんが立っていた。
「ぼく、ひとり?」
 おばさんが軽くいったその言葉は、彼のこころの中に突き刺さっていた剣をグリグリとねじまわした。はじめて、客観的に自分の立場を理解したのだ。
 そう、彼はひとり。
 自分がそれを選んだわけではないのに、彼はひとりだった。それを認められなくて、認めたくなくて、どこにも行かず、誰にも会わずに、ただキッチンで闇に怯えていたというのに・・・。
 初対面のおばさんは、突然やってきて、その事実を彼に突きつけた。まんまるいあかるい笑顔で。
 切り刻まれた心から熱い血が吹き出るように、目から涙がこぼれ落ちた。
「あらあら、どうしたの」
 最初は驚いてそういっていたおばさんも、いつまでたっても泣き止まない彼の姿に驚いて、ただただ頭を撫でたり、背中をとんとんとやさしく叩いてくれた。おばさんからは、彼が久しく嗅いだことのなかった、おひさまのような、おかあさんのようないい匂いがした。
 はじめは悲しくて泣いていた。けれど、しだいに訳が分からなくなり、ただただ泣くという行為に没頭していた。徹也はそばに誰かがいるという安心感に包まれて、いやというほど長い時間泣き続けていた。おばさんから流れ込んでくるやさしさに包まれて、彼は母との暮らしを思い出していた。
「ちょっとまってね」
 やさしく彼を抱きしめつづけていたおばさんは、ポンと肩を叩いて彼から離れると、ひらいたままだった扉を通って外に出ていった。
 外は明るくて、射し込んでくる陽の光がまぶしかった。久々に見た太陽の光。彼の目に飛び込んできたきらめきが、外へ出てゆくおばさんの背中を暗く映し出した。 
 愛する人々は、いつもこの扉を開けて、ここから足を踏み出して、彼の到達できない異世界へと歩み出してしまう。その黒く映る影と、空の青のコントラストは彼の心深くに刻み込まれた。この家を冥界の黒い闇が覆っていて、彼は闇なのだった。
 それは、異界の扉だった。
 おばさんの背中を見たとき「ああやっぱりこの人もどこかへいってしまうのか」と思った。今日はじめてあった他人で、しかもただ営業に来ただけの人だから当たり前のことなのに、それでも、それをどこかでわかっていながらもすごく悲しくて、また涙があふれてきた。急に自分自身と世界の分断を意識し、喪失感に耐えられなくて、玄関に座り込んで泣いていると、やさしい声が降ってきた。
「あららら、またはじまっちゃったの?」
 顔を上げると、そこにはおばさんが立っていた。
「いっぱい泣いていいからさ。おばちゃん、一緒にいてあげるから。大丈夫だよ。いっぱいよ。いいの、泣きたいときには泣いていいのよ。大丈夫、恥ずかしくなんてないの。
 でも、泣くのちょっと休憩して、これ飲んでみるかい? で、それからまたいくらでも泣けばいいじゃない?」
 差し出されたのは、イチゴ味のジョアだった。鼻水をすすりながら、手で涙を拭いながら、彼は遠慮もなく手を出した。手のひらにおさまったその小さなプラスティックは、ぬるい涙とは対照的に冷たくて、持っているだけでじわじわと身体の中になにかが入ってくるようで不思議に気持ちよかった。
 ていねいに小さなストローまで差してくれたそのジュースは、甘くて、トロっとしていて、ほんとうにおいしかった。
 その味を、その時玄関を包んでいた空気を、きっと一生忘れないだろう。

 愛するものが出て行くばかりだったその玄関から、はじめて光がやってきた。イチゴ味のやさしいヨーグルトドリンクとともに。
 ヤクルトを配達するのが仕事のおばさんは、その日も新しい顧客をつかむためにチラシを持って、家の近所をまわっていたらしい。ただ、それだけのために彼の家を訪れた人だった。徹也の身上を知ったおばさんは、いろんな手続きを踏んで、一緒に暮らせるようにしてくれた。
 おばさんとの暮らしは、とてもつつましいものだった。おばさんは朝晩祈りを捧げ、仕事をして、おいしいご飯をつくった。厄介払いのできた父は、莫大な養育費を口座に振り込んできたが、おばさんはそれを使おうとはしなかった。そのことを知った徹也は、家計を助けるために新聞配達をはじめた。
 

私がやろうとしていることは単なる破壊ではない。神の国が開けば、すべての人は救われるのだ。今、苦悩の日々を送っている人々を救い出すことが出来るのだ。私も母もおばさんも神の国にゆけるはずだ。
「おばさん、私はおばさんの言葉のとおり、そのドアを開け、真実の光に出会ったんです。そして、私はこれからすべての人の光を取り戻すために。
 神の生け贄となります」

 飛行機は、ますます高度を上げて順調に飛び続けていた。

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