016
FILE 愛憎
淡いオレンジ色の光に包まれて、なにも身にまとわず、誰にも見られることなく、誰にも気をつかうことのない、湯船の中のひとりだけのあたたかい空間。
一粒のしずくが水に落ちる。その瞬間、境界線はなくなり、しずくはしずくの形を失い、水となる。さらさらとした水の中に、わたしの目から出てくる水が溶け込んでゆく。おどろく暇もなく涙は次から次へと溢れていった。
わたしはどこか冷めていて、その水を眺めていた。こころは静けさに満ちていた。水面に輪をつくり、どこまでもひろがってゆく自分の身体からこぼれ落ちる水。それが、どこからきてどこへゆくのかを思うと不思議で仕方がなかった。
*
「感情を吐き出してごらん。すべてをぶちまけていいんだよ、いい子のふりはもうやめなさい。
悲しくて、つらくて。なにも見なくても感じなくてもいいようにと、こころの中に閉じこめてきた、記憶の扉をひらいてごらん。もっともっとお前自身を抱きしめて、もっともっと大切にするわけさ」
キヨさんはやさしい居間で、またしても涙が止まらなくなってしまったわたしの背中をさすってくれていた。
「もう大丈夫」
そう言いつづけるキヨさんの言葉が、わたしに少しずつ力を与えてくれた。
大きな海へと帰りたがっている涙が早く望むところに還れるように、わたしは顔を水面に近づけた。胸からあふれた想いの水は、まつげの先を通るとお湯に飛び込んでいった。水面はそれを待ちかまえていたように、わたしの涙を受け入れる。ぴちゃんと少し跳ね上げて、しずくは溶けてゆく。涙はもっともっと大きなものと解け合って、ただのお湯になった。
「ほかになにが大切なことがある? お前のこと以上に大切なことなんて、この世界にはなにもないさあ。
大丈夫よー。心配はいらないさ。すべてを解決できる。大丈夫さあ」
水はこころを波立たせる。閉ざしつづけているこころの目をひらかせてしまう。なぜ泣きたかったのかを、わたしは知っていた。そして、なぜ泣かなかったのかをも。
キヨさんの言葉が蘇ってきて、どんどん涙はお湯に還っていった。
家を出てちがう生活を選び、楽しく生きているつもりだった。けれど、なにも忘れてなんていなかったよ。あたりまえだよね。わたしはただ過去に蓋をしているだけだった。わたしはあの頃となにも変わっていなくて、博史によって芳明の部屋に閉じこめられているままだった。
わたしは、まだ一六才の子どもだった。博史の子が受胎するイメージにからめ取られたまま、ひざを抱えて、頭を抱えて、両腕できつく身体を抱えて、流れない涙を待ち望んでいた。恐怖の中で壊れてしまいそうだった。胸の中に溜まりつづける冷たい涙がこころを蝕んでいった。このまま消えることができればいいと何度思ったことだろう。恐くて気持ちが悪くて、おぞましくて、けれど誰にも言うことができずにただ強く目をつぶっていた、あの日々。
おなかの中に博史の子がいるかもしれないという思いから逃れられなくなり、腹を刺そうと決心をした。包丁を握りしめて、おなかを見つめた。思い詰めては思い直し、この包丁が向かう先は自分ではなくあいつだと、鈍い瞳の中で決断を下した。歯をかみしめて口の中に血を流した。朝も昼も夜も。
忘れることなど、できるわけがない。いくら忘れようとしても。
新しい月が巡り来て、血が流れ落ちてくるたびに安堵した。その赤い血を見るたびに、目からは流れてくれない涙のような気がしていた。血を極端に嫌う博史は、月経の時だけわたしを解放した。女として生まれてきたことにすら憎悪を抱いていたわたしが、唯一の安らぎを得ることができるのは、皮肉にも生理の期間だった。
何度この身体を白い濁液が貫いたことだろう。けれどもわたしの子宮は博史の精子を拒否しつづけてくれた。唯一神に感謝したことは、あの精液が子宮の中ですべて死に絶えてくれたことだけだった。
わたしはやっぱり狂っているのだ。ずっとずっと、子供の頃から、ずっと。
「世界が滅びる夢」だなんて、ほんとはただの自殺願望かもしれない。
わたしは夢の中でたくさんの人を見殺しにしてきた。泣き叫ぶ人を、苦痛にうめく人々を、何の手立てもなく、ただ見殺しにしてきた。そして博史には直接手を下したのだ。例え、夢や妄想の中であったとしても。
そんな世界にならないようにだなんて、思っていたってなにもできないのであればただの偽善でしかない。思っているだけじゃ、何の足しにもならない。わたしが存在している価値なんて、何一つとしてありはしない。
家を出て、わたしは自分の道を歩きはじめた。けれど、どこにいても博史の幻影はわたしを追いかけてきた。名前を捨てても、家族を捨てても、過去を捨て去ろうとしても、博史のことだけは捨て去ることができなかった。さまざまな意識が交錯したわたしの過去で、博史がわたしに刻みつけた子種よりもたちの悪い種、それは恐怖と憎悪と憎しみ。
家を出てからの一年間、名を捨てたわたしは、自分ではない何かになろうと「ほんとうの世界」を求めてさまよい歩いていた。『声』は、なんにも教えてくれなかった。わたしは自分で探すしかなかった。なにが「ほんとうの世界」なのかを。けれど、そんなことがわかるわけもなかった。
戦争を止める方法、環境破壊を止める方法を見つけるために、あちこちの勉強会や集会に参加をした。そこで知ることができたのは世界の狂気だけだった。
狂気に飲み込まれた世界を、取り戻すための答えを探し求めて。わたしは狂ったように、世界の宗教や政治や経済や歴史を学びつづけていた。あの日、電車で芳明がわたしを見つけてくれるまで、あの改札で腕をつかんでくれるまで。
芳明と再会したわたしは、芳明とわたしだけの小さな空間に安らぎを覚えた。窒息しそうにあえいでいた身体に呼吸する場所を与えてくれたのは、博史にもっとも近い弟の芳明だった。あなたに寄り添うように心は近づいていった。けれど、わたしには芳明を好きになる権利がない。こんなに汚れた女が、あなたのそばに存在することさえ、ほんとうなら許されているはずがないんだ。
「ほんとうの世界を知りたい」
わたしは、そっと自分のこころの中の思いを口に出してみた。
「そろそろ、次の場所に行く時間だよ。
もう大丈夫さ。前を向いて歩けばいい。胸張って、過去の扉をあけてみせるって自分に言い聞かせてごらん」
あの時、キヨさんが話してくれたことを、ちゃんと理解したいと願った。たくさんのしずくが水にとけあうのを眺めながら、もう逃げられないことに気がついた。
まっすぐに自分自身を信じて生きてゆくと、あの日決めたのだから。
「すべてはわたしのこころの中にある、か。ほんとうにそうなのならば、わたしには何ができるんだろう」
「世界をそれほどまでに大切に思うならば、なぜ自分自身を愛さないのだ?」
胸の中に静かで力強い声が響いた。
「何? 誰?」
「すべてはひとつだと、そう考えているお前が、自分のことだけは例外だなどという都合のいい考えができるのはなぜなんだ?
自分を愛することは、世界を愛すること。自分を憎むことは、世界を憎むことだ。
世界はお前の想いでできているのだから」
「わたしの想いで?」
「世界はお前と、すべての人の想いが絡まってできている」
「だったら、どうして世界はこんななの? わたしはそんな世界を望んでない。わたしが望んでいるのは・・・」
「どんな世界を望んでいるのだ?」
わたしが望んでいる世界って、いったいどんな世界なんだろう。
「お前が自分を汚れていると思っている限り、地球はきれいになったりはしない」
「なに? なんのこと?」
「お前の中に憎悪が残っているかぎり、世界の憎悪はなくならない」
その『声』は、こころを切り刻んで血の滲み出るようなセリフを、子供に説明するような優しい口調で語りかけてきた。
「お前の中の消せない憎悪、自分を汚いと思うそのこころ、それが世界の混迷の原因でもある。もう気づいているのだろう? 認めるのが怖いだけで」
返すべき言葉を、わたしは持っていなかった。『声』をダイレクトに受け取ったわたしのこころは、軋む痛みにうめき声を上げていた。
「世界を愛して、世界のために生きようと願いつづけてきた。わたしは幸せになんてなれなくても、他の人にはせめてわたしの分まで幸せでいて欲しい。世界は美しくあって欲しい。それだけじゃ、だめなの? そう思って、生きてゆくだけじゃ、だめなの?」
わたしの中の憎悪が、世界をこんな風にしているなんて。そんなはずが、ない。
「それが。お前たちが知ることを拒みつづけてきた真実だ」
「真実?」
「ほんとうのことを知るのは、恐いだろう。この宇宙を担う責任に押し潰されそうだろう。
だが、それを思い出し受け入れ、お前がお前自身を愛し、大切に思えるようになったとき、すべてが激変する」
「わたしの中の傷を癒していかなければ、世界を癒すことはできない? わたしの中の膿をすべて出して、こころをきれいにしない限り、世界はきれいにはなり得ない? わたしの中の憎しみが世界をこんな風にしちゃったの?」
「人のこころが変わらない限り、世界は変わらない。世界は人のこころで出来ているからだ。
戦争がなくなっても、人は違う方法で争いはじめるだろう。たとえすべての武器がなくなったとしても、また同じことをくり返そうとするだろう。これまで何度もそうしてきたように。
どうして、お前たちひとは、否定しつづけるんだ? 自分自身のことを」
「それは・・・」
「愛することを、愛されることを、なぜ拒否する」
「誰? あなたは、一体何者なの? ほんとうに世界の平和を実現したいと望むならば、まずはわたしが平和で、こころの底から笑っていることが必要ってこと?」
「あの世界は、無意識の暴走によって滅びてしまった。
すべてのものが戦争や環境破壊をしたがっていたわけではない。ただ日々を無意識に生きていただけなのだ」
「あの世界って?」
「あちこちで無理をして、ほんとうに欲しいものには手を伸ばすことなく我慢をし、自分ではないものを演じつづけた。そのことによって自分が破壊に荷担していることにさえ、人は気づいてはいなかった。
お前が閉ざしているこころの扉をひらかなければ、風は吹かない。中心に降りたって、その扉をひらくのだ。お前のこころの感じるままに、道を歩き出しなさい」
わたしはぽーっとしたまんま、水を見つめていた。
「世界がわたしの想いでできている?
わたしがわたしを愛して、大切に思えるようになったとき、すべては激変する・・・
自分を愛する? いったい、どうやって?
わたしが自分を愛せるようになったら、世界の滅びを止めることができるってこと?
そんな、わけないよね。あはは。なに言ってンダ? わたしが世界に対して、そんな影響力を持っているわけがないじゃない」
どうすればいいのか、なにもわからなかった。あたりまえだ、人類が抱えつづけてきた問題を、そんなに簡単に解決できるなら、わたしはなんだってやってみせるだろう。
「どうしたらいいの?」
すくい取った手のひらのお湯に顔をつけた。じんわりとお湯のあたたかさがまぶたを刺激し、閉じたまぶたの中の目がひらかれていくのを感じた。そして、ひらかれた瞳の中にキヨさんの姿が浮かんできた。
熱心に祈りをささげるキヨさんの背中。ただひたすらに、大いなる自然にひれ伏して、和合を祈りつづける美しく敬虔な背中。自然の中に調和し、とけ込んでしまいそうな祈りの背中。
「ほんとうに、なんだってやってみせるか?」
「なに? うん、やってみせる。ほんとうに世界を救うことができるなら、わたしはなんだってやるよ」
『声』にそそのかされて、わたしは思わず答えてしまった。