FILE2 過去の扉 007

 淡いオレンジ色の光に包まれて、なにも身にまとわず、誰にも見られることなく、誰にも気をつかうことのない、あたたかい湯船の中のひとりだけの幸せな空間。
 一粒のしずくが、浴槽の中の水に落ちる。その瞬間境界線はなくなり、しずくはしずくの形を失い、水となる。さらさらとした水の中に、私の目から出てくる水が溶け込んでゆく。どこかしら常に張っている緊張の糸がプツンと切れたのだろう。おどろく暇もなく涙は次から次へと溢れていった。
 急に涙が出てきたのは、久々にお湯をためてゆっくりと湯船に浸かったときだった。
 水は、こころを波立たせる。閉ざし続けている、こころの目をひらかせてしまう。なぜ泣きたかったのかを、私は知っていた。そして、なぜ泣かなかったのかをも。最近の私は、こころが語りかけることから、わざと気をそらしていた。最近、ずっとシャワーですませていたのは、自分と向かい合うことを無意識のうちに拒んでいたからだ。お風呂にはいるのが恐かったのだ。たくさんのしずくが水にとけあうのを眺めながら、やっと気がついた。
 私が恐れていたのは、自分自身の運命を認めることだった。
 芳明と再会したとき、私は神を、自分の運命をうらんだ。すべてを忘れるために、家も学校も名前も捨てたというのに。神さまはなんと過酷な運命を用意してくれているのだろうか。閉ざそうとしても、逃げようとしても、過去の扉は否応なく私につきまとってくる。

 すべてのはじまりは、あの冬だ。
 どうして私は、あの時死んでしまわなかったんだろう。いっそ、あの時。
 その冬は、私にとってそれまでで一番厳しく、つらく長い冬だった。私は、こころおだやかに暮らせる環境が欲しかった。笑って時を過ごせる家が欲しかった。ただそれだけだった。
 高校1年生の頃、両親が離婚をめぐってとてつもなくもめていたお陰で、私は近くに住む芳明の家に世話になっていた。
 芳明には私たちより4つ上の博史くんというお兄さんがいた。高校も一年でやめてしまった芳明とはちがって、博史くんは国立大学に通うおばさんの自慢の息子だった。
 博史くんは小さな頃からすごく優しい男の子で、優しすぎて社会に出てからやっていけるのかと、周囲の大人がいつも心配しているようなそんな子だった。ほんとうに彼は、いつもいつもやさしかった。一人っ子の私にとっては、芳明は親友で博史くんはお兄さんのような存在だった。博史くんがお兄さんだったらいいのにと、私は本気で思っていた。おばさんも私のことをほんとうの娘のようにかわいがってくれて、一緒に笑いながら食事をつくったり、休みの日にはみんなで買い物に出かけたりと、生まれ育った家以上に家族のあたたかさを実感しながら楽しい日々を過ごしていた。
 それはすごく寒い日曜日で、おばさんたちは町内会の集まりで出かけていた。風邪をひいていた私は自分の部屋で眠っていた。ビュービューと音を立てて街中を吹き抜けてゆく風が、その日の寒さを物語っていた。
「大丈夫?」
 そういって、そーっと扉を開けたのは博史くんだった。ホットミルクを持ってきてくれた彼の優しさを、私はほんとうの兄のように素直に受け入れた。
「ありがと」私は半分寝ぼけたままで、ベッドに座ってミルクを飲んでいた。
「風邪かなあ。気をつけないと」
 私が飲み終えたマグカップを受け取ると、博史くんは机の上に置いて額に手を当てた。彼の手のひらの方が私の身体よりもよっぽど熱っぽくて、心配になった私は「博史くんも風邪?」と聞こうとしたくらいだった。ミルクの残した熱なのか、私の熱が反射したのか、なんなのかはわからなくて、熱に浮かされてぽやっとした頭で考えていた。その手の熱さを、その不思議な空気感を、いくら記憶から消し去ろうとしても忘れることが出来ない。きっとこの額が記憶してしまったのだろう。
 急に白い天井が見えたかと思うと、私の顔の前には博史くんの顔があって唇をふさがれていた。気がついたとき、私は彼に押し倒されていて、熱を持っていた彼の右手は私の胸をまさぐっていた。驚いた私は、両手で彼の肩を押して抵抗した。彼は急に強く私の両腕を抑え込んだ。
「好きなんだよ」
 おだやかだった部屋の雰囲気は一変して、彼は叫びながら抵抗する私を無視して、パジャマのボタンを必死に外そうとしていた。彼の手をつかむと、右手の血管が妙に青く浮き出ていて、その血の巡りが私の恐怖をより一層増していった。
「やめて」
 彼の必死の顔を見たとき、私は彼の優しさの裏側にあった狂気をはじめて知った。
「ずっと、好きだったんだ」
 彼が叫びながらパジャマを力一杯引っ張ると、着古したパジャマのボタンは私を守る術もなくあっけなくはじけ飛んでいった。私の胸があらわになったとき彼の必死の形相は一気に恍惚にかわり、押さえつける力は更に増していった。
「やめて」
 それでも私は抵抗をして、彼のおなかを蹴りあげようとした。その時、左の頬に火のような痛みが走った。彼の右手が、私の頬に打ちつけられた。口中に血が流れ出して、涙と鼻水と血の味がした。
 抵抗し続ける私の、顔やお腹や肩を殴り続けながらも、博史くんは私を「好きだ」と言いつづけた。「好きだ」そう言いながら、まだ誰にも許したことのないその場を押し広げ、うわごとのように私の名を呼び、何度も何度も「好きだ」とくり返した。切り裂かれ、引き裂かれるような痛みとともに私の中に入ってきた。苦痛に歪み、涙でグチャグチャになった私の顔中にキスをし、快感にすべてをゆだねたその悦楽の顔に汗を垂れ流しながら、そしてまた「好きだ」とくり返しながら身体を揺すった。
 私の中であっけなくその絶頂を迎えた彼は、それまでの獣のような彼ではなく、普段の小動物のような彼に戻っておどおどと部屋を出ていった。私は、動くこともできないまま、ふとんをかぶって、身体中に走る痛みに耐えていた。
 彼は私のことを好きだったのかもしれない。けれども、それは私には苦痛でしかなかった。私の顔があまりにもひどく腫れたことに驚いた彼は、その後顔を殴ることだけはしなかった。けれど、一方的な愛情はその後もエスカレートしていった。逃げようとする私に暴力を振るい、押し倒し力でねじ伏せた。
 なぜ、私はこんな目に遭わなければならないんだろう。私のなにが悪かったのだろうか。
 家族が家にいなくなる昼間はなるべく家に帰らないようにして、私は彼から逃げ続けた。けれど、我慢の出来なくなった博史くんは、夜中に部屋にやってくるようになった。みんなが寝静まったころ、部屋の扉を開けて何度も何度も私を自由にした。私の身体には彼を拒否するたび彼に刻みつけられた傷跡が増えていった。
 博史くんは私の中に入って来るたび、名前を呼び続け「好きだ、好きだ」とくり返し、耳元で何度も「愛してる」とささやき続けた。
 けして自分は望んではいないその行為を、好きでもないその男は求め続けた。拒否をすればするほどうれしそうに残忍になるその男は、ひきつった笑顔を浮かべながら、私を殴り蹴り身体を貪った。
 精液や唾液を石鹸で洗い流しても、刻まれた傷と汚辱は洗い流されることはない。いくら手を洗ってもきれいになった気がしなくて、手も身体もどす黒く汚れて見えた。夜も昼もおびえ続け、眠ることができなくなった私は、偏頭痛に苦しめられた。部屋から出られなくなった私は、ふとんの中で丸まったまんま、足音におびえて震えていた。恐くて、悲しくて、痛くて、自分自身を汚いと思った。私の目には黒いフィルターがかぶせられたようで、食べ物も、草花も、空も、すべての景色がくすんでいた。
 いつもいつも小さな物音にさえおびえて、街に出れば人の目に恐怖を感じた。すべての人が恐くなり、私は学校に行くこともどこに出かけることもできなくなった。

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