芳明の風景 洞窟の奥からの声(2)  034

 彼女が懐中電灯で照らしだしたのは、今まで気づかなかった小さな通路だった。
 どこからか風が吹いてくる。
「不思議だ。さっきは気づかなかったのに」
「うん、でもなにかあるんだよ、きっと」
 彼女の“きっと”が出てきた。僕らはいつも“きっと”に振り回されている。今回の洞窟探検も、それからはじまったのだ。だけど、直感が彼女に言わせる“きっと”を、僕はいつの間にか信じていた。
「気をつけて」
 僕のそんな言葉なんてまったく耳に入らないように、彼女はどんどん先を歩いてゆく。まるでなにかに導かれるかのように、よく遊びに来る散歩道のように、すいすいと進んでゆく。
「芳明、道が見える? 」
「いや、まったく」
「あのね、おかしいの。はっきりと見える。自分が向かうべき道が、見える。呼ぶ声が聞こえてくる。
 さっきの声じゃない。やさしい。うん、やさしい声だよ」
 この道は、どこに繋がっているんだろう? 僕らを導いているのは、一体誰なんだろう。悪魔でなければいいけれど。でも、彼女と一緒ならばそれでもいい。たとえ、僕らが向かっている場所が地獄だったとしても。
 だけど、これほどまでに世界を想う彼女が地獄にいくはずはない。地獄行きは僕だけか? それでもいいや。彼女が苦しまなければ、それでいい。
 僕はそんなわけのわからない想像をしながら、彼女のあとをひたすらについていった。
細くて急な勾配を降りてゆくと、少し広い道に出た。そのまま歩き続けると、大きな池があった。まったく光の射さないその池を懐中電灯で照らすと、不思議なことに水にさざめきが起こった。
「湧き水かしら?」
 僕はその水をすくって、口に含んでみた。
「海水だ」
「ここはどのあたりなんだろうね。方向がまったくわからないや。でも、海底鍾乳洞に繋がっているのかも知れないね」
 その池の右奥には、まだまだ細い道が続いていた。彼女は、またしてもふらふらとひとり歩き出した。僕はあわててあとをついていく。突き当たりかと思うほどに真直角に折れ曲がった道をすすむと、そこには大きな岩があった。頭上の岩盤の裂け目から光が射し込んでいる。それはこの洞窟に入ってから、はじめてみた外からの光だった。その光は、真下にある大きな岩を照らし出している。
「これ? これなの?」
 上を見ながら、そうつぶやいた彼女は、突然その岩に抱きついた。
「なに?どうしたの」
「これ動かしたい」
 とはいうものの、その岩は僕らふたりが必死になっても、びくりともしなさそうなほどに大きかった。彼女は髪を振り乱して、その岩を動かそうとしている。
 突然抱きついたように見えたのは、岩があまりにも大きくて、彼女があまりにもちっぽけだったからだ。
 必死で岩にしがみつく彼女を岩からひきはがし、僕は比較的足場の良さそうなところを探して、力を入れた。やはり、びくともしない。これを動かすだなんて、どうしてそんな無茶なことを言い出すのだろうか。
「私も動かす。ひとりだけじゃ無理だって」
「いいから、危ないから下がってろ」
 彼女に強い口調でそう言い放って、僕は自分で自分に驚いた。彼女も、僕のそんな強い物言いに驚いているようだった。一瞬呆気にとられていたようだったが、僕が岩に取り組むのを素直に後ろに下がって見ていることになった。
 これは、僕がやるべき仕事だと、その時急に思った。なぜなのかはわからない。彼女の“きっと”にまたしても、突き動かされているのかも知れない。
 歯を食いしばって、足を踏みしめて、両手に力を入れた。しかし、この大きな岩はびくともしない。
「どうしてこの岩を動かすの?」
 僕は聞いた。その答えがわかったからといって、いやわからなかったからといって、この岩を動かしたいという僕らの衝動が消えるわけではなかったが、それでも僕は岩に抱きついたまま振り返って彼女に聞いた。
「この岩を、動かすことで、なにかがあるのよ。
 きっと」
 ああ、僕はこの一言が聞きたかったのだ。彼女の口からこぼれ出るそのセリフが。キヨさんがいうように、いつかやってくる彼女の大きな選択がなにか深い意味を持つのならば、それに向かうために祈りと共に生きている彼女の日々の選択にも深い意味があるに決まっている。僕は、その彼女の選択を支えつづけることを選択したのだ。だからそばにいる。だから、彼女を支え、守りつづけてゆく。
 暗闇の中、岩の冷たい感触を感じながら、僕は夕べの彼女の姿を思い出した。満月に向かって祈りの舞いを踊る少女。僕の女神。
 大地の底から力が湧いて来たような気がした、その瞬間僕はすべての力を込めて、彼女への想いもすべてぶつけるように岩に向かっていった。僕の人生の壁のように立ちはだかっていたその岩は、あっけなく動いて、すさまじい砂ぼこりを立ててその場を僕らに譲った。そのほこりは空から射し込む光の中で乱舞して、きらめきを映し出した。
 どこからかとてつもない強風が吹き荒れたかとおもうと、地の底から壮絶な地鳴りがしはじめた。その轟音と、まるで竜巻のように舞い上がる風とほこりで目の前がなにも見えなくなった。
 暗い洞窟の中が一瞬にして光に包まれた。頭上の裂け目以外は、どこからも光の射し込まない真っ暗な洞窟の中だというのに、どこからやってきたのかもわからない奇妙な、それでいて身体を突き抜けてゆくような強烈な光が突如あらわれたのだ。
 そして、虹色にきらめくとてつもなく巨大なものが、天上から射し込む細い光にむかって昇っていった。その細い亀裂からは到底抜け出せないほどの太く巨大なそれが放つ光は、まったく熱を感じさせないのに岩盤を溶かしてしまい、亀裂の周囲の岩を輝かせながら押し広げていた。そして、それが過ぎ去ったあと、残された輝きとひかりの粉が降り注ぎ、洞窟の中がきらめいていた。
 僕らは、その場に突っ立ったまんまぽかんとその光景を眺めていた。今、目にしたものがなにかまったくわからなかった。
「なに? いまの」
「わからん。でも、なに?」
 それが昇りきって空に帰っていったあとの亀裂は、以前となんにもかわりのないただの細い亀裂のままで、空から射し込む光はなんの変哲もない光のままだった。


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