芳明の風景 祈り 44
長い長いファイルを読みながら、僕は車の中にいながらにして、彼女の壮絶な旅を追体験していた。早く海を渡って関空へいかなければと思いながらも、このファイルを読み終わらないうちにほかのことをするなんて、出来そうにはなかった。まして、頭の中がほかのことでいっぱいのときに車を走らせるなんて出来やしない。
彼女はこれほどまでの克明なファイルを、いつの間に記したのだろう。僕らは一緒にいたはずなのに、僕は彼女の心の中で起こっていることをほんとうになにも理解していなかったんだと、何度も何度も思った。
彼女は、その身に降りかかる出来事から様々なことを感じそして学び、成長をしてきた。このファイルから、痛いほどにそれが伝わってきた。この先にはどんな未来が、彼女にとっては過ぎ去った過去が描かれているのだろうか。この先を読むのはつらくて怖い。けれど、彼女の真実の姿を見たいという、そして彼女のすべてを知りたいという強い欲求に抗うことはできないのだろう。それは、今までと何も変わらず、きっとこれからもずっと。
あの洞窟にいったとき、僕はまだなにも知らなかった。あの洞窟と彼女が、僕の扉を開いてくれたのだろう。
僕が彼女を沖縄に迎えに行ったとき、キヨさんは僕に言った。
「愛よりも強いものはない。人が人を想う。すべてのものに慈しみを持つ。それは、地球の芯までを癒し、歴史さえも癒してゆく力だよ」
僕にはその意味がよくわかっていなかった。
「お前もあの子のことを愛するならば、その愛で包み込んであげなさい。お前の愛が本物ならば、すべてを越えてあの子と共に歩くことが出来るようになるさ。
そしてお前の役割はそれなんだよ」
僕は、それまでのことを思い返した。
「龍宮城へ、もう一度行ってくる」彼女がある日、そう言い出した。
「僕も一緒に行くよ」
「ごめん、どうしてもひとりで歩きたいの。お願い、ここで待っていて」
彼女がそう言うだろうということがわかっていながらも、僕はそう言わずにはいられなかった。
僕らは飛行機に乗り再び海を渡った。沖縄まではついてゆくことをゆるしてくれた彼女も、龍宮への道をともに歩くことはゆるしてはくれなかった。
「芳明、夜は必ずここへ帰ってくるから。大丈夫、もう心配しないで」
そして彼女はたった一人で歩きはじめた。
あの日、生死をさまよいながら歩いた70キロ近い道のりを。誰に言われたのでもなく、ただ直感に従って。彼女の到達点には一体なにがあるのだろうか。僕には、まだわからなかった。
朝日が昇る前に起き出して、太陽と自然の美をたたえて感謝をし、足を踏み出してゆく。太陽が沈む頃その日の目標地点まで達すると、彼女は那覇へとバスで戻ってくる。そして、明日のためにひたすら眠り、また昨日の地点までバスに乗って出かけてゆく。僕にできることは、そんな彼女を見送って、そして出迎えることだった。
龍宮のほこらに着いたとき、彼女になにが待ち受けているのだろう。
この祈りが彼女を変えてしまうのではないかと、僕なんかの手の届かないところへ、どこか高貴な世界へと行ってしまうのではないかと、そんな不安が僕を苦しめていた。
ずっと変わらないことなど、有り得ないというのに。彼女に僕の手が届いたことなど、一度としてなかったというのに。
くねくねと曲がった道でもただひたすらに自分の信じた道を歩き続けてゆく。そんな彼女の背中を眺めながら、あの頃の僕は、僕の不甲斐なさと弱さを痛感するばかりだった。
そして、僕はいまだにわからない。
このファイルを僕に“今”送ってきた理由は、一体何なんだ?