002
FILE ありがとう
芳明、いつもありがとう。
どうして、わたしがこれをあなたに宛てて書いているのか、自分でもよくわかりません。
でも、こうすることが一番いいのかな。芳明への手紙にすることで、やっとわたしの指が動きはじめたの。
芳明、ありがとう。わたしは、いつだってあなたに感謝をしているよ。
いつか、あなたがこれを読むことがあるのかなあ?
わたしのひとりごとのような、この長い長いお話しを。
もしかすると、あなたがこの手紙を読んでいるその時、わたしはあなたのそばにはいないのかも知れないね。そうじゃないと、いいな。
いつまでも、あなたのそばにいられると、いいな。今はほんとうに、こころからそう想う。
こんなことを文字に書くなんて、どうかしている。これは死ぬまで隠しつづけてゆこうと決めた、捨てたはずの過去なのに。よりにもよって、芳明に宛てて書くなんて。
わたしも自分でよくわからないよ。どうしてこんなことをしなければならないのかなんて。
閉ざそうとしても、忘れようとしても、逃げようとしても、過去の扉は否応なくわたしにつきまとってくる。すべてを忘れるために、家も学校も名前も捨てたというのに。
大丈夫、大丈夫って。バカみたいにわたしは、その言葉をくり返しているよ。
ねえ、芳明。どんなわたしでも、あなたは愛してくれるかな。
もうこの手を止めてしまいたい。飛行機に飛び乗って、この島から逃げ出してあなたの元へゆきたい。けれど、そんなことは出来ないんだ。このファイルをすべて書き上げてしまわなければ、もうわたしはどこへも行けない。あなたに会うこともできない。それを誰よりも知っているのは、わたしだから。
芳明。あなたはあの時、言ってくれたね。「きみはきれいだ」って。ほんとうにそう想ってくれている?
今でも? このファイルを読んでも、わたしをきれいだと思ってくれる?
ほんとうのわたしを知っても、わたしの髪を撫でてくれるのかな?
わたしは今試されているんだと思う。わたしの中に存在する勇気だとか、自分自身の強さを。
ほんとうにすべてをさらして向かい合うことが、たったひとつの方法ならば、逃げ出すことなんてできない。
大丈夫。わたしにはできる。芳明、わたしは書くね。すべてを。
ねえ、芳明。
わたしあなたを愛しているよ。あなたのとなりにわたしがいること、それを許すことができるようになって、ほんとうにわたしは幸せだよ。
あなたと出会えたから、わたしは勇気を持つことができたの。
だからわたしは、わたしの運命にまっすぐ飛び込むことを選択します。
ありがとう、芳明。
ねえ、お願い。いつも笑っていてね。いつも幸せでいてね。
生まれてきてくれて、ありがとう。
わたしと出会うことを選んでくれて、ありがとう。
愛しています。
芳明の風景
なんだ、このファイルは僕宛てじゃないか。なのに、なぜ『見ないで』なんだろう。
『あなたがこの手紙を読んでいるその時、わたしはあなたのそばにはいないのかも知れないね。』
「どういうことだ?」
さよならのメッセージにも取れるようなこの手紙。ファイルの大きさからして結構な文章量が書かれていそうな僕宛ての手紙。彼女は、これをいつ書いたんだろう。島で、あの後に書いたのか?
あの日、後ろ髪引かれながら僕だけがひとり、大阪に帰ってきた。島に残った彼女に一体何があったんだろう。
ファイルを読まずにノートパソコンを閉じることなんて、僕には出来なくなってしまった・・・
FILE おわりのはじまり
神さまの光かと思うほどのまばゆい光が真っ青な空をきらめきで染めた。
光に魅入られたたくさんのいのちは、一瞬にして終わりの時を迎えた。
人だけではなく、動物や植物、地球上の数え切れない生命が、蒸気のように消え去ってしまった。
声を出すいとまさえなく、息絶えるいのち。
かろうじて生き残った人は塀を乗り越えて、周囲を押しのけて一目散に走り去る。
どこへいけば安全なのかなど、誰ひとりとしてわかってはいなかったけれど、ここではないどこかへと逃げ込むために、人々は走りつづけた。
木々が燃える。
家が燃える。
人が燃える。
壊れていく建物、消えていく人々。
自然が長い年月をかけて慈しみ育んできたものが、一瞬にして燃えつきた。
泣き叫びながら、人々はあてもなく走りつづける。
子供の絶叫が耳をつんざく。
飼い主に放りだされ、クサリに繋がれたまま逃げる術をなくした犬たち。
人々は黒い涙を流し、生き残ったことを神に恨むことになる。
太ったネズミが走りまわる汚れきった川の中にたくさんの人が飛び込んだ。乳飲み子を抱いて、幼児の手を引いた母親が髪を振り乱し裸足で走る。大きな荷物を抱えたおじさんが血相を変えて走りさる。老婆にぶつかっても、それを振り返りもせずに逃げ去っていく。地面に横たわった老婆は、立ち上がる気力も失って座り込む。
人々はさまざまな方向に走りつづけたけれど、どこへ逃げれば安全なのか、何が起こっているのかは、誰も何も知らなかった。
急いで逃げようとした人々があちこちで交通事故を起こしていた。燃え上がった車の中に取り残された子供が泣き叫んでいて、その子の親だけがガラスを割ろうと大きな石を持って必死になっている。そんな親子のことを誰も助けようとはしない。たくさんの交通事故の影響で、道路は恐ろしいほどに渋滞をしていた。
我先に逃げようとする人々の思念がからみ合って、一次的な事故や爆発での死者よりも、二次的な、人災での死者がどんどんふえていった。死体を見ないふりをして走りつづけてきた人は、転がっている死体になりたくなくて、それを踏みつけて前に進んでゆく。
「立ち止まれば、次に横たわるのは自分だ」と。人々は助け合うことも、思いやることも忘れてしまっていた。
その顔からは愛や慈しみや優しさは消え失せて、憎悪と欲望がむき出しになり、獣のようなという表現を使えば、獣がおこりだしてその名を捨ててしまいそうなほどに、人は人ではなくなっていった。
ねえ、芳明。わたしには何が出来たんだろう。その風景の中で、わたしは何をするべきだったのかな。
わたしはその街角に立ち尽くしていた。ただ、立ち尽くしていたの。何をしようとしても、すべてが両手をすり抜けていく。この目の前で息絶えようとしている人々の、そのうちの誰ひとりとして助けることもできなかった。
わたしの存在は、世界から引きちぎられていた。別の空間に立たされているみたいにね。そこでは、わたしだけが観客だった。スクリーンのこちら側にわたしだけが立っていて、投射される光に向かって叫んでいるみたいに。
誰の目にもわたしは見えないの。誰の耳にもわたしの声は届かないの。
幼い子どもに手を伸ばしても、捨てられた犬のクサリをほどこうとしても、道に倒れ込むおばあさんを抱きかかえようとしても、わたしの身体は彼らをすり抜けてしまう。
「なんなの? どうして?」
自分の無力さに愕然として、こころだけが痛くて、苦しくて。どうしてわたしには、何もできないんだろう。ポロポロとこぼれてゆく涙さえも、空間に消えていってしまうんだよ。ホログラフィーのように、その空間に浮かんでいて、死にゆく人々をただ眺めるしかなかった。
そのうちに、目の前で繰り広げられているパニックよりも、大きな恐怖が襲ってきた。
「わたしは、この世界には存在していないの?」
その時になってはじめて、自分が夢を見ていることに気がつくの。これは夢の出来事なんだって、現実じゃないってわかった後も、わたしは夢の中で苦しみつづけていた。
あまりにも惨たらしい現状をどうにかしたいと願い、それでも何をすることもできずに、涙を流しながらただそこに立っている。子供も、母親も、老人も、犬も、誰のことを助けることもできなかった。たくさんのいのちが目の前で失われていったよ。
どうしてこんなものを見せられて、わたしには何もすることができないの?
なぜ、こんなことになってしまったの?
ちいさい頃からずっと、たくさんの世界の終わりを見た。いろんな風景と、いろんな人たち。炎と真っ黒な煙にまかれて、世界が壊れていく。
幼いわたしが泣きじゃくって目を覚ますと、お母さんがそばに寄り添って心配そうに眺めていた。いつの夜も、わたしの頭をそっとなでながら。
「大丈夫よ、大丈夫よ」
お母さんは、そういって背中をやさしくさすってくれた。やさしい匂いに包まれながら眠りについて、もう恐い夢を見ることはなかった。
やさしい手をなくしたあとは、夢を見てうなされるとそのまま眠らないようになった。テレビをつけて世界がまだつづいていることを確認すると少しほっとして、朝の日が世界を照らしはじめるのをじっと待ちつづけた。
タオルケットにくるまったわたしは、いつも願いつづけていた。
「たとえば、この地球がまわりつづけるために『生け贄』が必要ならば、世界が滅びるのを止めるために『犠牲』が必要であるとするならば。
どうか、わたしをそれに使ってください」