FILE18 夢  46

一日の行程を無事に終えてバスに乗ると、疲れが波のようにどっと押しよせて、身体から力を奪っていった。座席に身を任せて目を閉じると、そこにはほのかな光とともに彼がいた。

太陽を見ても、木々を見ても、雲を見ても、空を見ても、海を見ても、蝶を見ても、その人を想った。いまならきっと、あの時のウエイトレスのように不機嫌な顔をしている人を見ても、私は彼を想うだろう。
 光と出会い幸福感を感じる一方で、私の胸を苦しめているのは叶わない想いだった。苦しくて苦しくて、けれど甘美なその胸の苦しみは、歓喜の出会いの裏側に存在していた。
 会いたい。
 一体あなたは何者なのだろうか。実在の人物なのか、私の妄想が創りあげた架空の人物なのか。どうしてこんなに苦しい思いをしなくちゃならないの?
「あなたはいまどこにいるの。苦しいよ。助けてよ。今すぐ、あなたのそばに行きたい」
 あなたに会い、手に触れ、髪に触れ、唇に触れたい。そのためならば、きっと私はなんだって出来るだろう。くらくらして、めまいがしていた。
 どうしてあなたは、それほどまでにあからさまに私の閉ざしてきた扉を開けてしまったんだろうか。
 こんな気持ちは、ほんとうにはじめてだった。これを恋というのだろうか?だとすれば、私は最大級の恋をしているに違いない。

 夢の中でさえも、私は泣きながらティダを追いかけていた。暗い暗いところで。何も見えない場所で、ただティダの鼓動だけが聞こえてきた。
「ああ、僕はこの世界に大変なことをしてしまったんだ」
 彼は何度も何度もそうつぶやいて、ため息をついていた。何をそんなに苦しんでいるのか、私には何もわからない。
「ティダ、なぜそんなに苦しんでいるの?」
「もう一度やり直したい。君に出会って、そう想った。やり直せないことなど、何一つとしてない」
 その暗闇に目が慣れたのか、少しの光がどこからかこぼれ入ってきたのか、真っ暗闇はほんの少しだけ濃いブルーに変わりはじめていた。
「巻物をもらったのは僕だったんだ」
「巻物?なんのことかわからないよ、ティダ」
「ああ、理解できなくてもいい。いつの日か、君にも理解できる日が来る。その時のために、今は聞いておいてほしい。ただ、僕の言葉を聞いていてくれるだけでいい。僕のために」
「わかる日が、いつか?」
「あるとき僕は、すさまじい光の中から降臨する美しいものと出会った。
 美しきものの声に導かれるままに僕は、宇宙の果ての未知の空間に立っていた」
 彼のつぶやきを聞きいているうちに、私の胸の中では、うすぼけたスクリーンに古い8ミリフィルムが映し出されるかのように、その光景が音もなく展開されていた。光だけがただただ強くて、その他は色を失って消え褪せてしまうような、光だけがインパクトを持つイリュージョン。そこで繰り広げられている光景は、人類が生み出してきた星のきらめきの数ほど存在するどの映画よりもドラマティックな物語、おそらく惑星の胎動を象徴しているというのに、胸を打ちはしない。すべての色を備えているにもかかわらず、モノクロームよりももの寂しい幻影だった。暗闇に今にも押しつぶされてしまいそうなティダの後悔の念だけが、まったく別の次元において光彩を放っていた。
 じわりじわりと黄色みを増す光が、まぶたを通じて胸に染み込んでゆく。黒の青はやがて暗黒に浮かぶ線香花火の最後の光彩のしずくのようにぽってりとした濃い橙色に支配されていった。
「そこには、さらに輝く存在が在った。その右手には、固く封印された秘密の巻物が握られていて、誰にも開けることの出来ない7つの巻物を、僕に手渡した。その巻物を受け取ると、僕の手の中でその封印が解かれて、未来が飛び出した。
 ほんとうはそれを焼き捨てる勇気を持っていれば良かった。けれど、僕は。
 ああ、僕は・・・」

 ただうらやましかっただけなんだ。
 僕はただ見ていた。僕がもたらしたことが、どれほど世界を歪めてゆくかを。
 間違いの大きさに気がついた時、歯車は急速に回転し続けていた。
 はじめてしまった愚かなゲームをもう止めることができない、もう無理だ、と。そう、あきらめてしまったんだ。
 神の寵愛を一身に受けるものたちに嫉妬していた。
 その光のまばゆさゆえに・・・。

 光と闇が生まれたそのとき、闇の存在として生まれた。
 なんて皮肉なのだろう。僕を太陽と名付けるなんて。
 闇から生まれた、僕は虚無なのだ。
 輝く光の名をもらったとしても、僕は太陽にはなれない。

 はっと目を覚ますと、昇りたての大きく黄色いまん丸な月が私を見ていた。
 バスの中は薄暗くて、窓の向こうには街並みが流れてゆく。疲れ切っていた私は、ふたつの座席に横向きに身体をうずめて椅子の上に足をのせていた。つかれた足をマッサージしているうちに、小さく丸くなったままで眠ってしまっていたようだ。
 クラブ活動を終えた高校生たちの楽しげな声が、静かに揺れるバスの中に染み込んでいった。
 異世界からかえってきたばかりのように夢から覚めきれないまま、おおきな月に見とれていた。あの世界に、ほんの少しの光をもたらしたのは、この月かも知れない。そんなことを思った。
 大きな大きな基地の上に浮かぶお月様さま。人間はバカだけれど、今夜もあなたは美しい。
 普段は無意識のうちに抑えている感情がむき出しになって、生身のこころがヒリヒリしていた。ティダをいくら想っても、ティダとは結ばれることはないと、私はどこかで知っていた。けれど彼という存在以外に男性として愛することのできる人なんて現れるのだろうか。一緒に歩いてゆける人に出会えるんだろうか。
 お月さまをただただ眺めていたら、涙があふれてきた。さみしくて、さみしくて。私はずっとひとりかも知れない。こんな私をすべて受け入れてくれる人なんて、そして私自身がこころをさらけ出せる人も、この世界にはいない気がする。そう思うとさみしくて涙が出てきた。

 ティダ?
 あなたはなにをそんなに苦しんでいるのでしょうか。その苦しみが理解できればいいのに。
 あなたのその荷物を持ってあげることができればいいのに・・・。
 大丈夫だよ。遅すぎることなんて、なにもない。生きている限り、どんな大きな過ちだって償うことはできる。残してきた問題の解消はきっと自分でやれるよ。ううん、自分でやらなくちゃならないんだ。
 彼を想いながら、浮かびつづけてくる言葉をノートに書き連ねた。私のペンが紡ぎだす言葉は、すべてが私にむけられているような言葉ばかりだった。不思議だった。こんな言葉が私の指先からあふれ出てくるなんて。あわてて文字を書きとりながら、一文字一文字が私の胸に染み込んでいくような不思議な感覚におちいっていた。
 大丈夫。
 どんな過ちだって、すべて。のりこえて歩いていけるよ。過ちを起こしてしまったならば、それを解決すればいい。過去にとらわれていれば、未来を歩けない。未来にとらわれていれば現在を歩けない。過去も未来もなくて、あるのはこの瞬間という現在だけ。現在という、この瞬間瞬間の積み重ねが過去であり、そして未来なのだから。
 この現在を、与えられたこの一瞬を完全に生きることで、すべてを解決してゆくことができる。そんな風に生きていくことで、現世の現在・過去・未来をその手に掌握するだけではなく、すべての問題もクリアーにできるはずだよ。
 あなたには幸せでいてもらいたい。考え込んだり、苦しんだりしてほしくない。いつも笑っていてほしい。そう願ったり、祈ったりすることが、今の私の幸せだよ。
 あなたに出会えて良かった。ほんとうにありがとう。


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