彼女の風景 不安 53
件名:念のために
お願いがあります。このメールの添付ファイルを、絶対に見ないでください。ただ、もし私になにかがあったとき、その時はこれをあなたに託します。
大丈夫だったとき、といってもそれは数時間後にわかることだから。あなたは、まだこのメールを受信さえしていないかも知れない。
その時はわらって捨てようね。
お願いだから、バカだなって、笑ってね。私もそうなることを願ってる。
「今朝は、いつもとなにかが違う?」
目を覚まして、ふとんの中から窓の外を眺めたその瞬間、不思議な違和感にさいなまれた。窓の外には、いつもとかわらない朝の空が広がっているというのに、私は強烈な不安にかられていた。
なにがいつもと違うのだろうか?その違いはまったくわからなかった。
私は今日飛行機に乗る。しばらく時を過ごしたこの沖縄を離れて、生まれ育った大阪へと帰るのだ。今までだって何度も空を飛んでいるし、飛行機を怖いなんて思ったことは一度もなかった。今日に限ってこんな風に思うなんていったいどうしたというのだろうか。
「満員の飛行機は墜ちない」
いつか読んだ本にそんな感じの言葉が書かれていた。誰の本?、どんな話しだったっけ?細かいことはまったく思い出すことはできなかった。けれど、強烈なインパクトを残したその一言だけが、記憶の隅っこに引っかかっていた。
たしか、その本によれば飛行機事故の統計を見ると、墜落やエンジントラブルなどを起こす飛行機は明らかに乗車率が低いという。虫が知らせるというのだろうか、急にキャンセルをする人が続出するらしい。
「この不安はなんだろう。虫が知らせているの? まさかね」
胸に去来する不安にとりつかれていた私は、いろんな言い訳を並べて、不安におののく自分のこころをなんとか落ち着かせようとしていた。しかし、国道に出てタクシーを探す間も、空港に向かう車の中でも、不安は徐々に膨らんでいった。だが、それはまったく根拠のない不安だった。
「なんなんだろう。この胸の動悸は。飛行機が危ないことを、私の直感が察知しているんだろうか」
流れてゆく景色を眺める暇もなく、不可思議な感情の原因を探ろうと、私は自らのこころの中をのぞき込んでみた。
「完成したばかりのあのファイルが、私の不安をこんなにも駆り立てるのだろうか?」
まだ誰にも、中身どころか存在さえも明かしていないファイルがある。この身体がたとえ灰になったとしても、私には伝えなければならないことがある。私が不意の事故でこの世からいなくなれば、そしてコンピューターが動かなくなってしまえば、これまで胸に秘めてきたものが、ほんとうに秘められたままになってしまう。私が恐れているのは、自分の死ではなく、そのことだった。
私が今から乗るこの飛行機、墜ちるんだろうか・・・?いや、でもまさか。そんなものは不安が作りだした想いにしか過ぎない。
「すいません、異常に混んでるんですよ。普段こんなことはないんだけど」
運転手に声をかけられて、私は急に現実に引き戻された。
「え?」
一瞬、彼が何をいったのかが理解できずに、変な声を出してしまった。運転手の言葉を数拍遅れで理解した私は「ああ、ほんとだ」と適当な相づちを打った。
内側に向けていた視線を外に移せば、沖縄本島を縦断する国道58号は、今までに見たこともないほどに渋滞していた。まるで中古車販売の見本市のようにずらっと車が並んでいる。空港までは、車で普通に走って40分程度の距離だった。朝一番の飛行機に乗るときなどは、まったく車の走っていない58号線を飛ばせばあっという間についてしまう。今朝はそのまったく同じ道を、1時間以上走っているというのに、まだ那覇に入ることさえできていなかった。この渋滞のひどさならば歩いた方が早いくらいだろう。
「はー、もう。なんでこんな普通の日にあんな混んでいるわけ?お客さん、飛行機の時間大丈夫ね?」
そういわれて我に返った私は、時計を見てため息をついた。ずいぶん余裕を持って出たはずなのに、飛行機の離陸時間はどんどん迫っていた。
タクシーは離陸15分前になってようやく空港に到着した。走り込むようにしてチェックインを済ませて早足で搭乗口に向かいながらも、どこまでもくっついてくる不安を追い払うことができなかった。
「とにかくファイルをメールでどこかに送信しよう」
私は歩きながら決心をした。とりあえずメールでどこかにファイルを送ってさえいれば、なんとかなる。マックが壊れても、私が息絶えたとしても・・・。
「なんて縁起の悪いことを考えているんだろう。やだやだ。こんな風に思っている私の念が飛行機事故を引き起こしてしまいそうだよ」
「お前にとって、想いを表現するのは、文字さ。こころの中を整理するのが難しいならば、まずはすべてを書き出してごらん。そうすることで、曖昧な想いも、順序が見えてくるし、なぜそれがそのときになされたのか、ということを理解できるかもしれないさ」
キヨさんの言葉に導かれて、私はこれまでの想いのすべてをノートパソコンの中に書き綴った。私がようやく書き終えた物語。それがたとえ私の妄想でしかなかったとしても、私にとっては本当に大切な物語で、そのことを知っているのは、私とこのマックだけだった。
ロビーでISDN公衆電話を見つけるとノートブックを電話台の上に置き、メールソフトを立ちあげて新規メール作成の準備をした。リュックから財布をとりだして小銭を入れようとすると、こんな時に限って十円玉も百円玉も入っていない。お金を崩しに行くにも、売店には雑誌や弁当を買おうとする客で列ができている。
「もう、ほんとうにイヤになっちゃうなあ・・・」
私は仕方なく1000円札を取り出し、自動販売機でテレホンカードを買った。再びモジュラージャックを突き刺し、送信ボタンをクリックする。モデムカードが自動的に電話回線を繋ごうとする。数秒の後、エラー音が鳴り響き「予想しないエラーのため、回線を繋ぐことが出来ません・・・・」赤い枠のついたエラーメッセージが表示された。
電話回線が上手く繋がってくれない。
「ご搭乗の最終案内を申しあげます。関西空港行きご搭乗予定のお客様、当機はまもなくご搭乗案内を終了いたします・・・・」
・・・あと5分しかない。
再度送信ボタンを押してみても、結果は同じだった。まったくつながる様子はなくて、時間だけがどんどん過ぎていってしまう。
モデムをチェックし、回線をチェックし、もう一度送信ボタンを押した。
・・・・。ダメだ。
繋がらないどころではなかった。ハードディスクが作業中なのを知らせる小さな砂時計を表示したまんまマックはフリーズしてしまい、うんともすんとも動いてくれなくなってしまった。
「なんで? どうして、こんな時に限って」
コントロールとオプションと起動ボタンを押して、コンピューターを再起動させながら、私は額に浮き出る汗を拭った。手のひらに滲み出る汗でコンピューターを滑り落としてしまわないように、イライラを鎮めながらコンピューターが起動するのを待った。それは、普段の何倍もの時間のように感じられた。
「もう、送るのは止めようか。飛行機に乗れなくなったら、元も子もない」
「・・・・・・。お急ぎください。まもなく、ご搭乗案内を終了いたします」
アナウンスも、最終の搭乗案内を告げている。
「でも、もしものことがあったら・・・」