嫌いな『血』から学んだこと【投稿企画 | #嫌いな人から学んだこと |参加記事】
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「嫌いな人」から「学んだこと」。難しいテーマですね。嫌いだと思ってしまう人がいないわけではありません。だってにんげんだもの(相田みつを風味(笑)ですが、そこから何某かを学んだとなると、少し考えてしまいます。ですので、根底根管を綴ってみようと思います。以下文語体(である調)混じりにて。
血とは、Bloodの定義では下に並ぶであろう「血筋」「血統」のことである。きっぱりと言ってしまうと、私は親族というものが苦手だった。平素はほとんど関わりがない、他人よりも隣人よりもずっと縁遠いのに、何かが生じると土足でこちらの内側に踏み込んでくる彼らが。
「まだ結婚しないの?」「選り好みしてちゃ時期を逃すわよ」
「いい人がいるけど紹介しようか?」等々。ご親切なことである。全くもって感謝に堪えぬ……わけがない。正直、大きなお世話である。
ここまではまだいい。私に対してだからである。
「親っていつまでも元気な訳じゃないのよ」
「貯蓄はあるの?いざという時の専門施設は把握しているの?」
微に入り細に入り。どこまで続くのか。
たまにある親戚の集まり、その末席に座を連ねながら、俗に言うアルカイックスマイルを浮かべつつ、彼らの話を馬耳東風と受け流す。
等々。尖った文言、お目汚しをご寛如賜りたい。上記は20年ほど以前の私の本音だ。今、そうした言葉をかけてくれる人たちの多くは鬼籍に入ってしまった。善意だけだったのだろう、と当時を振り返って思う。
私もそれなりの年代となった。あのときの親戚と並び、人によっては当時の彼らの方が年下だ。公務員からSOHOという職業的に激変し、かつ単身を通す私が気掛かりであったのも無理からぬ、こちらの不徳の致すところ、そう思うようになった。
学んだことがある。
固定観念で他者を見るな。人はそれぞれ別の環境と信念で生きている。その違いを簡単に理解しようなどとはせず、違うということを尊重せよ。
彼らが私に言ってくれたことから、学んだことがそれだ。
できているかは分からない。当時の彼らよりも小賢しい私は、知らずして他者の三和土の内側へと土足で踏み入っているのかもしれぬ。その懼れを忘れずにいようと思う。思い続けねばならない、生きている限り。
ひとつ詫びをせねばなるまい。
私はあなたたちの血を受け継いだ。そして若き日「あなたから継いだ血は、私で終わりにしたい」と思ってしまった。それを消せぬまま、この年齢を迎え係累を最低限、両親のみとしてしまった私の不徳を。
遺すのは血だけではない。思い、心を遺すことはできる。血縁でなくとも、遠方の人へ向かう想いを。詫びと誓いを抱えながら、私は20世紀末から21世紀の今に至るまで拙い筆を取り続けている。
あのときの伯父伯母へ。
皮肉ではありません。言葉をありがとうございました。受け入れがたい言葉に負けまいという意地を情熱と変えることができたのは、あなたたちがいてくれたからです。そして、私の先達がいたからこそ、私は血を受け今も生きることができている。感謝は生涯を掛けて書きつづけることに代えさせてください。いつかまた、お逢いしましょう。お詫びはそのときに。
拙稿題名:嫌いな『血』から学んだこと
本文総字数:1162字(原稿用紙3枚相当)
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拙稿をお心のどこかに置いて頂ければ、これ以上の喜びはありません。ありがとうございます。