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Muchas gracias Papa ありがとう教皇様

訪日されたフランシスコ教皇が、長崎の爆心地公園で、長い長いお祈りのあとスピーチをされ、そのしめくくりに、一つの祈りを紹介されました。 

(中略)……ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でないかたもおられることでしょう。でも、アッシジの聖フランシスコに由来する「平和を求める祈り」は、私たち全員の祈りとなると確信しています。
主よ、わたしを、あなたの平和の道具としてください。
憎しみがあるところに、愛を、
いさかいがあるところに、ゆるしを、
疑いのあるところに、信仰を、
絶望があるところに、希望を、
闇に光を、
悲しみあるところに、喜びをもたらすものとしてください。

私はカトリック信者ではありません。けれど心に響きました。あとできちんと調べてみよう……そう思いながら、月曜、ほとんど興味本位で、東京ドームのミサの中継をYouTubeでみていました。
厳かなミサの終了間際、アリーナ席のみなさんが席を離れて聖体拝領を受けているときのこと。美しい聖歌の合唱が聞こえてきました。穏やかで流れるような旋律なのに、頭の中で延々とリピートして鳴り止まない。(YouTubeの『ローマ教皇東京ドームでミサ』始まって1:32くらいから)

あなたの平和の道具にしてください
主よ、あなたの平和の道具に
憎しみあるところに、あなたの愛があるように
悲しみあるところに、喜びがあるように……

(聞き書きなので歌詞が間違っていたらごめんなさい)
これ、前日長崎でおっしゃられたお言葉に近い。
あわてて「アッシジの聖フランシスコ、平和の祈り」をネットで調べました。(ネットってありがたいなあとしみじみ思う、ネットがなかった時代を知る世代)
すると、上のお祈りは、次のような下りに続いていた。

慰められるよりは、慰めることを、
理解されるよりは、理解することを、
愛されるよりは、愛することを、
わたしが求めますように。

私、こんなことを思いました。そうか、「誰か私を慰めてよ」ではなく、まずは私が誰かを慰めてあげよう。
「誰か私を理解してよ」ではなく、まずは私が他者を理解しようと努めること。
「誰か私を愛してよ」ではなく、まずは誰かを愛すること。

ノートに書きとめ、しばらく聖歌の余韻にひたっていたら、さらに、東京ドームの直前、東京カテドラルで行われた「若者との集い」でフランシスコ教皇が話された内容がニュースで入ってきました。

「学校でのいじめが本当に残酷なのは、精神と自尊心が傷つけられることです」「この疫病に対して使える最良の薬は、あなたたち自身です。友人や仲間どうしで“絶対だめ”、“それは間違っている”と言わなければいけません」
「世界があなたを必要としていることを忘れないでください。
きょう、起き上がるのに手を貸してほしいと求めている多くの人に、あなたが勇気を与えられるのです」

最初の「平和の道具」に、つながったような気がしました。
世界があなたを必要としている=どんな人だって、必要とされている。だって誰もが「平和の道具」になれるのだから。

カトリック信者ではないけれど、あれこれ考えさせられた、教皇様の来日。
大げさな言い方をするとね、先週までの私と、今週の私は、ちょっと違う。
どう違うかというと、とても真面目に考えたんです。私も「平和の道具」になれないものだろうか。誰が私を必要とするだろう?どんな人の力になれる?遠い外国の人とは限らないよね? 私を必要としている人が、今どこにいようが、いつでも力になれるよう、自分を律していかなければ。
そして、真面目にそんなことを思うのが、若い頃ほど気恥ずかしくないことにも驚きました。五十年生きてきて、ようやく素直に宗教というものに向き合えるようになれた。そういうことなのかもしれない。
これからも時間をかけて向き合っていきたい。
Muchas gracias Papa  ありがとう教皇様。日本まではるばる来てくださって、本当にありがとうございました。


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