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それは呪いではないんだよ
母方の祖母の話をします
私は母方の祖母が大好きでした
気質的に似ているところがあるのか、
すごく馬が合うなと思える人でした
祖母も遠方に住んでいた孫である私を、
とても可愛がってくれました
今でも祖母は大好きですし、
もう少し生きててほしかったなと思うのですが、
どうしても忘れられないことがあるので、
ちょっとここで吐き出しますね
決して明るい話ではないので、
ここで回れ右して戻っていただいて構いませんm(_ _)m
あれは、私がちょうど中学生になった頃
中学生に上がるとき、
私の家族は父の転勤で
室蘭に引っ越しました
そして同じタイミングで、
母方の祖母が末期癌に冒されていることがわかりました
正確に言うと
元々患っていた癌の再発で、
検査したときには
骨にまで転移している状態で
祖母以外の家族には
医師から余命宣告がされていたようです
当時の私の母と母の姉(伯母)は
今の私よりも6歳ほど若い30代半ばで、
かなり動揺したと
母も伯母ものちのちに話していたのを覚えています(私も38歳の時に母を亡くしたので、その動揺の気持ちは何となくわかりますね)
祖母が函館の病院に入院すると、
私の母と伯母は1週間交代で
祖父の様子を見に行き、
函館の病院へ祖母のお見舞いに行っていました
その間、室蘭の家では父と私と弟で過ごしていたのですが、
私の父は仕事の都合上、
家を1週間くらい空けることも多かったので、
私と弟と二人で過ごす日もありました
母からは祖母の癌が再発したこと以外は
何も明言されていなかったものの、
状況から察して
祖母があまり長く持たないようだというのは
中学生の私にもわかりました
なので、父も母もいない日のご飯支度や洗濯など、
できることはやろうと思って、
私なりにやれることはやるようにしていました
とはいえ、
当時の私は13歳の中学生
どれくらいの期間にこれを続けることになるのだろうと、不安な気持ちになったりもしました
7月に入ってから
父と私と弟で、
祖母のお見舞いに行くことになりました
私の記憶の中の祖母という人は、
いつもニコニコしていて笑顔が素敵な人でした
入院といっても、
きっと今日もニコニコして迎えてくれるんだろうなと、そう思い込んでいたのです
祖母の病室に入って
目に入ってきたものは、
いろんな管とかチューブに繋がれて
力なく笑う祖母でした
想定していたものとまったく違う状態に、
私は言葉を発することができなくて、
事実を目の当たりにして泣きそうになりながらも、
今も懸命に治療を受けている祖母の前で
泣くなんて絶対に失礼だと思って、
何とか堪えました
そこで祖母がかけてくれた一言が
「(あなたの)お母さんをばあちゃんが独り占めしてごめんね」でした
私は祖母に何て返していいかわからなくて、
「そんなことないよ」
となんとか声を絞り出しました
涙も気持ちも、
すべて祖母の前で出さないように堪えることで精一杯でした
その後、お見舞いが終わるまで
十分ほど時間があったと思うのですが、
私にはその時の記憶がないのです
すっぽりと抜け落ちてしまっています
次に記憶があるのが、
祖母の病室から出てエレベーターに乗ったときで、
そこで声を殺して泣いたのは覚えています
これがまた皮肉な話で、
この日の祖母が私が見た祖母の最後の姿でした
その一ヶ月後に
祖母は母と伯母に看取られて他界しました
祖母が亡くなった次の日、
私と弟は父方の祖母と叔父に連れられて
函館の祖父母の家に行きました
祖父母の家には祭壇が組まれて、
祖母の骨箱が置かれていました
函館は
人が亡くなったあと
先に火葬をしてから
お葬式するという風習があります
私はそれを知らなくて、
最期に一目祖母の顔を見られるかと思ったら、
既に骨箱に納められていたので、
いろんな思いが全部溢れてきて
祭壇の前で声をあげて大泣きしました
泣いている私に
身内もそれ以外の人も気を遣って声をかけて下さったのですが、
何の慰めにもならないし、
私の気持ちは何一つおさまらないので
放って泣かせておいてほしいと思っていました
(反抗期だったから余計に)
ここまでが大好きな祖母が亡くなる前から
お葬式までの私が記憶していることです
さて
私が未だに拗らせているのは、
祖母の
「(あなたの)お母さんをばあちゃんが独り占めしてごめんね」
という最期の言葉
この言葉をどう受け止めて
どう対処したらよかったのかな、というところです
冷静に考えると、
祖母は自分が病気になり、
母が函館に来ている分だけ
私にしなくていい負担や苦労をかけているのが
本当に申し訳ない、
という意図で言った言葉なんだろうなと、
そう思うのです
ただ、言われた私としては
結局それが祖母の最期の言葉になってしまったので、なんだか呪いの言葉みたいになっちゃったんですよね
恐らく、呪い感が強まっているのは
最期が「ごめんね」という言葉だったから
きっと、その当時の私は
「ごめんね」と言われるよりも
「お見舞いに来てくれてありがとう」とか
「お母さんをこっちに寄越してくれてありがとう」とか、感謝や労いの言葉を聴きたかったのかもしれないな、と思います
祖母が長くないのはなんとなく分かっていましたし、それを承知の上で家のことをやっていたのと、
ばあちゃんが一日でも長く生きられるように、
うちの母や伯母がいる側で安心して治療を受けてほしかったから、
申し訳なさではなくて、感謝で伝えて欲しかったなと
いや、
そもそもあの時、私が祖母が言った言葉に対して
「そんなことないよ」ではなくて、
「ばあちゃん、それは違うよ」って伝えて、
素直に泣いて良かったのかな
気持ちを素直に出していたら、
なにもかも拗れなくて済んだのかもと
ちょっぴり後悔していたりします
当時の私は子どもであることを
少し否定したくなるような年頃だったから、
聞きわけがいい振りをして
大人ぶりたかったんだろうな
もう祖母が亡くなって30年近く経つので、
やり直しも効かないですし、
どうしようもないんですけれどもね〜
この話は
若い頃から今まで
何度も何度も言語化して書こうとしたのですが、
結局結論は出ないし、
過去の自分に向き合いきれなくて
書くのが嫌になって、
ずっと心の中で拗れて引っかかっていたことでした
今回、じっくり時間をかけて言語化してみて、
そこから過去の自分に向き合ってみたときに、
ひとまずの妥協点というか落とし所が見つかった感じがしたので、
もうばあちゃんの最期の言葉は
呪いではないと腹落ちした感じです
人生の夏休み、本当に有意義すぎる
数年前に墓じまいも終わったっていうのに、
ずっと拗れたままでいてごめんね、ばあちゃん
今度、ばあちゃんのひ孫を連れてお参りにいくからね
待っててね