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だから私は「健康で生きる」ことを価値とする
物心ついた頃から、
死に対して
言い得ぬ不安と恐怖を持っています
生まれてきたら
死ぬことって不変じゃないですか
逃れることができないので
とても怖いです
そして、
死は自分が意図していなくても
突然向こうからやってくるものだから
余計に怖いし不安です
日常生活の中に
突然大きな口を開けて出てくる
ブラックホールみたいなものだなと思っています
一昨年に母を亡くした時から、
それがより一層強くなっている感じがします
あれは一昨年の春先のこと
母が病を告知されて、
入院した日の深夜のことでした
父から母の危篤の一報が入りました
その一報の数時間前、
父から母が無事に入院をしたこと、
明日から治療がはじまることを
電話で聞いたばかりだったのです
私は全身から血の気が一気に引いて
比喩とか冗談ではなく、
パニックになって震えておりました
怖くて怖くて仕方がなかった
だって、在るのと亡いのはまったく違うことだから
私は信仰心がまったくない人ですが、
その時ばかりは
「もし神様がいるのなら母を助けてほしい。この願いが叶ったら、私はそれ以上何も望むことはないから、どうか母を救ってほしい」と
心の底から何度も願いました
お医者さんも看護師さんも
懸命に力を尽くして下さいましたが、
その願いは叶うことはありませんでした
時間にすると10分にも満たない数分の出来事だったのですが、渦中にいるときはその時間がものすごく長く感じました
母は63歳でこの世を去りましたが、
仮にもし自分が母と同じ歳で亡くなるとしたら、
あと20年とちょっとの話なんですよね
そう考えると
「そんな悠長にしてる余裕もなく、長い時間だとも言えないな」
と私は思ってしまうのです
かと言って生き急ぐというのも
「なんか違うかなぁ」と思うので、
これからの生き方を
人生の夏休み中に模索している状況なんですけれどもね
ちょっと話は飛びますけれど、
人間の「煩悩」ってあるじゃないですか
煩悩のボンの字は
「煩わしい(わずらわしい)」
「煩い(うるさい)」
とも読めますよね
これがあるから、
不変である死の不安や恐怖が
薄れたり隠れたり和らいだりするのかなと
私は思ったりするんですよね
煩わしく、煩いもののベールに包んで、
死というものを
直視させないようにしているのかなと
だったら、
私は煩悩だらけで結構
煩悩上等だなと思うんですよね
それで不安や恐怖が霞むのであれば、
私は常に煩悩を身に纏って生きていきますね
(大丈夫かな、この記事)
でもですね、
死に対して言い得ぬ不安や恐怖を持っているからこそ、
ただそこに生きて存在していることが
本当に有り難いことなんだなと思えるんです
「生」というものが、より尊く美しく思えます
くすり売り場で長いこと務めてたこともあって、
そこに身も心も『健康』であるということを加えると、もう人生最高じゃね?と思います
ここで記事のタイトル回収になりますが、
だから私は「健康で生きること」を価値として、
それを自分にも自分以外の人にも願ったり、伝えていけたらなと思う次第です
じゃあ具体的にどうするの?
ってところですが、
そこまでにはまだ至ってないっす!
そのプロットが出来てたら、もうそれに向かって走ってます!!だからそれ以上もうツッコまないで!!!言語化も無理!!!!(笑)
……現実的な話、またどこかで登録販売者として働くことが手っ取り早いんだろうなー