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「できる子」と思われたい呪い

M2の生活も1ヶ月が経って、後輩も入ってきて
授業ではなく実習がメインになったりと
自分の環境もやるべきことも大きく変わった。

ケースについて検討したりの時間が増えてくると
自分の課題も浮き彫りになる

そんな中でずっと、自分の中でじゃまなものが自分を支配している感じがする

それは何かというと、先生やみんなに「すごい」とか「うまく関わってる」とか言ってもらいたいと過剰に思う自分自身。

私は昔からそうだったと思う。
小学校の時からいわゆる「いい子」で通ってた私は、周りにそう思われることが自分の存在価値かのような生き方を知らず知らずのうちにしていたような気がする。

でもそんな理想と現実の自分にはやはり少しミスマッチが生じてくる。

決してできないわけではない。
でも自分が思ってるほどできるわけでもない。

とにかく努力で補おうとした。それでも補いきれないところと多かったが、評価されるには十分だった。

中高の時、成績は学年で5位以内、調子が悪くても10位以内には必ず入っていた。
それも親や周りにすごいと言われたいからきっと頑張った。そうしているうちにそこそこ勉強は好きになった。

こんな生き方をしてきたから、あまり人に怒られるとか指摘されるとかが少ない人生だった。

そんな自分が今,人の悩みに真剣に向き合い、その人の人生に寄り添う仕事をしようと大学院にいる。

今までの勉強とは違う。英語とか数学とか、それを頑張る理由がどうであれたくさん勉強して点数が伸びればそれでよかった。

でも今は、人の人生を一緒に担ぐようなことをしようとしている。
もちろんながら、先生に評価されたいとか周りにすごいと思われたいとか、そんな理由だけで成り立つものではない。

それでも私は、そういう理由で形だけなんとかいい感じのことを言おうとしている自分になんとなく気づきながらも、いい感じのことを書き連ねて、薄っぺらいことをあたかもめちゃくちゃ考えたように発表していた。

ベテランの先生にはきっとそれがわかるんだなと思った。返ってきたコメントは、私が思ってたものとは全然違った。

「僕ならそうは思わない」

もちろんこれは正解はない。
この先生が正しいわけでもない。しかし、それを言われた私はギクリと思った。

ぎくりと思ったということは、自分は心からそう考えていると自信を持って言える意見ではないことが心の奥底で感じ取れたからだ。

こんな時、きっと今までたくさんいろんな人の意見を聞いたり、取り入れてきた人間は自然とそれを取り入れていこうとストレスなく動くんだろう。

私みたいな、怒られたことのない人間は、その指摘をショッキングな出来事として認識してしまう。

ただ単純に、怒られるのが怖い、というのとは違う。私を否定するの??という黒い気持ち。

こんな私でも、指摘されたことを見直そうと意識的に取り組もうとする姿勢くらいは持ち合わせている。来週になったらたくさん記録を読み直して、SVを受けて、見立てを立て直そう!
と思っている

でもふと気づく。そんな時でもなお私は
「次の発表の時こそは、褒められてみせる!」という動機に突き動かされている。

意識としては、形としては、
「今度こそちゃんと向き合って、しっかりクライエントさんのためになるように」
と思っているが

根っこの部分では
「今度はしっかり見立てを立てて、優秀だと思ってもらいたい」とか「この2週間でここまで考えてきたことを評価されたい」
と思っている自分がいることにもまた気づいてしまっている。

こんな私が

本当に目の前の相手のためだけを考えて
等身大の自分を受け止めて

向き合うことのできる日は来るのだろうか


その答えはきっとクライエントさんが私に教えてくれるのかもしれない。
いまはこんな傲慢でくだらない自分に気づけたことでひとまず良しとして、その先はその先に任せて、ひたすらに経験を積んでいくしかないのかもしれない。

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