今日で自身がやっていたノイズバンド、silene(シレネ)の解散から10年になる。 中学生の頃初めて父と生のオーケストラを聴きに行った、組曲「展覧会の絵」。その中の一曲"キエフの大門"に感動し着想を得て10年前に作曲し、sileneの解散直前まで演奏していた「gate」という曲がある。 バンド解散から今年で10年を迎えるにあたり、自分の中のひとつの区切りとして何か出来ないかと年明けから考えていた折、師匠から発表会での演奏の機会を頂いた。 奇しくも今年、キエフの大門を構えるウ
実家の片付けは続いている。 着々と捨て、手放し、棚などを解体する。 手に取る度にハッとして、自分の手で処分するのが辛く、心にどしんと来る瞬間は相変わらず沢山あるけれど、上手く自分をいなしながら実家に寄る都度、地道に進めている。 そして先月、片付けの旅の第一段階の目標にしていた「いつぶりか分からないぶりにお雛様を飾る」を達成した。 本当にいつぶりだろう。 20数年ぶりかな。 流石の母の丁寧な収納で、20年以上出していないとは思えない、素晴らしい保存状態。 みんな綺麗。子供の
今回は実家の片付けについての記録①だ。 私は実家を一切片付けないまま19歳で一人暮らしを始めた。そこから長年放置してきた荷物たちを片付けながら、色んな思いが心に去来した。 父が若くして購入した実家は築40年を超えている。私は一人暮らしをするまで引っ越しを経験した事がなく、私が生まれてからのもの、そして姉の荷物もしっかりと実家に残っていた。 とんでもない量と重量のそれらは、東日本大震災を経て大いに実家を痛めてきた。そしてそれに気付いていながら、長い間目を逸らし続けて来てしま
この間、外を歩いていて何処からともなく漂ってきたペンキの匂いを久しぶりに嗅いだ。ペンキの匂いで私の頭によぎるのは、 「源氏パイ」だ。 私が3歳の頃のその日、実家は外壁の塗り直しをしていて、ペンキの匂いが家の中にも漂っていた。 その頃の私は朝起きたらまず母を呼ぶのが日課で、その日も目が覚めると布団に入ったまま「ママー!ママー!」と母を呼んだ。 しかし母は中々現れない。 しばらく呼び続けると、玄関のドアが開く音が聞こえて、寝ていた部屋の襖が開いた。 反射的に母だ!と期待したのだ
私が親元を離れて一人暮らしを始めたのは、5月6日の事。専門学校2年生の時だった。 専門学校に入学して1年目は、実家のある牛久から神奈川県の日吉というところまで毎日電車で往復約6時間をかけて通っていた。 牛久から常磐線で上野へ、上野から山手線で渋谷へ、渋谷から東横線で日吉へ。 が、そもそもがギリギリの力でこの学校に入学していた私は日々の課題はもちろんのこと、正直通学だけでいっぱいいっぱいで、授業について行くどころかあれよあれよと落ちこぼれたのだった。みんなが1ヶ月で仕上げて
かりんが芽吹くと滾る。 今週、いつも通る道のかりんの木が芽吹いていた。 芽吹いたかりんはこの後大きく葉を広げて、小さなピンク色の花を咲かせ、楕円形の緑色の実が育ち出す。夏頃には、その華奢な花からは想像もできないくらいに緑の実は大きく膨らみ、気温が下がり始めるとそれらは一気に黄色く色付く。 それまでは同じくらいの大きさの緑色の葉に擬態してよく確認出来なかった実が一気に目立ち、こんなに成っていたのか、と毎年心底驚くのだ。 その段になると、何故だかかりんから 「あたい今年もこん
2021年最初の投稿は手帳についてである。 私はスマホでの予定管理がどうにも苦手で、ずっと手書きの手帳でやっている。 手を変え品を変え手帳ライフを旅してきた。 今使っているのがこちら。 ASHFORDのこげ茶のやつ。 (この一つ前は、Davinchの赤いやつを使っていた。) キャラクターのものや、1年で使い切るものを使っていた時期もあったが、連続しての成果が見づらくて、文庫本サイズのバインダー形式に。中身だけを取り出してファイル出来るようにした。 その後1日にいくつか予
思いがけない1年であった。 いつも通りの新年の幕開け、そして1月まではライブや日常の何もかもは通常運転であった。 うっすらとコロナウィルスの気配が出だした2月の頭、そして2月9日のステージを最後に、決まっていた全てのステージが飛んだ。 心待ちにしていたステージや、延期がさらに延期になり、そのまま中止になってしまったステージ、発表される事のないまま消えていったステージ。やりきれなくて、やるはずだった会場のスケジュールのページを何度も見て、そこに並ぶ開催中止の文字の嵐に、現実な
先週はハンバーグフェス@渋谷O-EASTであった。GOING UNDER GROUNDさんのステージにキーボードで参加させて頂いた。 このO-EASTには思い入れがある。 私がその昔通っていた音楽の専門学校で、1年に1度だけ開催される選抜メンバーによる大きなライブイベントがあった。 出演条件は毎週木曜日に学校内で開催されるライブにオリジナル曲でエントリーすること。そしてエントリーされた200曲余りの楽曲の中から、さらにライブ審査で絞り込まれる20曲程の楽曲に残ること。 細か
12月である。 12月で思い出すのはやはり、飲食業に携わっていた時のことだ。 私は19歳の時に人生初のアルバイトをホテルのレストランで始めてから10年程、色んなレストランでホールスタッフとして飲食店に勤務していた。 12月は通常、飲食店にとってはそれはもう大変な繁忙期である。1ヶ月を通して忘年会、クリスマス、年越しパーティー、とにかく毎日が目まぐるしい。 アイドルタイム(ランチとディナーの間の休憩時間)がない商業施設内のレストランにいた時は、オープンからクローズまで休憩は疎か
私は一時、ホテル内の結婚式場で仕事をしていたことがある。 業務は数え切れないほど沢山あるが、ざっくり言えば披露宴でお料理を出したりするスタッフだ。 その頃言われた忘れられない一言がある。 お日柄の良い土日の式場の裏側は戦場だ。 大小5つほどの式場が全て2回転という事もザラで、刻々と変わる状況に対応する為に常に人員配置を変えながらとにかくバックヤードをヒールでスタスタ歩く。シルバー(ナイフやフォーク)磨きをしていても、あっちの会場に移動!と指示が出れば作業が途中でもすぐに向か
人生に於いて忘れられない日というのはぽつぽつあるが、私は音楽を始めたその日の事が、そのひとつだ。 音楽を始めるきっかけになったのは私の一言だった。私が5歳の時だ。記憶にはないが、テレビで流れていた音楽教室のCMを見て「これやりたい」と自分から言ったのだそうだ。 丁度入会案内のハガキも届いていたらしく、それならやってみる?と体験レッスンを申し込んだのだった。 体験レッスンの日。 母と牛久駅前の西友へ車で向かう。 今は西友ごと撤退しているが、当時ここの5階に音楽教室が入ってい
noteを始める。 以前ブログをかなりしっかり書いていた時期があったが、離れて久しい。 今日レッスンに向かう車の中で、ふと、文章、と思ったのだ。 言葉はあまり得意な方ではないのだけれど、とある会社でお客様にメールで送る通信を長く担当させて頂いており、これが思いの外好評なのだ。 ふむ、文章、やってみようと思い立った今日であった。 思い立ったが吉日。 Twitterでは書ききれない、Facebookのテンションでは書けない、ここのリンクを開いて下さった方と私自身の備忘の為の