限界集落がくれたライフコース | はるももの社会学
生まれ育った地域は見渡す限り、山、田んぼ、山、川、イノシシをはさんでときどきおじいちゃんという、なにをどう間違ったって田舎としか形容しようのない場所だ。小学高学年には、登校班は二個下の女の子とたったふたりきり、もはや班と呼ぶに忍びないくらいだった。
当たり前すぎて巷が問題にするまで気付かなかったが、思えば、生まれたときからそこの景色は”50%以上が65歳以上の高齢者、冠婚葬祭など社会的共同生活や集落の維持が困難になりつつある集落”、いわゆる”限界集落”だ。
お上りさんして早2年。そんな友達は意外と多くないことを知る。それだけに、限界集落は私にどんな産物をくれたんだろう。
目に見える変化をなにかひとつ挙げるとすれば、それは町の景観だ。こどもの学校はみっつからふたつ、ふたつからひとつになり、その代わりにおじいちゃんとおばあちゃんの学校(老人ホーム)が忽ち現れた。こどもの遊ぶ場所はどこへやら行ってしまい、気付けばおばあちゃんとおじいちゃんの遊び場(ホームセンター)がぽつぽつとできた。
こうした変化が、ライフコース(※)へ与える影響は、思いも至らないくらい大きいというのが社会学のいうところだ。思い返してみると、なるほど確かに、少子化と高齢化による変化は、私のライフコースにも影響してくる。近くにふさわしいものがなく、実家からかなり離れた隣の市の高校に通うことになったのは、その最たる例だろう。
でも、本当にそれだけだろうか。
というのも、少子高齢化がライフサイクル(※)に与える影響は、社会学辞典にも一般的にもマイナスなものが散見される。
なぜだか、それを見てどうも腑に落ちない。
そしてはたと気づいた。
少子と高齢化、二重苦とされるそれはどうも私のライフコースには一筋の光をさしていたようだ。
※ライフコースlife course
社会的存在としての個人の生涯の過程をいう。ラ個人の地位・役割のありようと時間的経過のなかでのその変遷,そしてこれに変化をもたらすような社会的・個人的出来事が関心の焦点となる。
※ ライフサイクルlife cycle
生命体の一生にみられる規則的変化のパターンをいう。生命現象とともに,生活現象にみられる節目や変化パターンが重要な意味をもつ。近年、人々の価値意識やライフスタイルの多様化とともに,ライフサイクル概念が前提とする平均的・標準的パターンを設定することには無理があるとの批判もなされるようになった。
地元での日々は、懐かしく心にふわふわと漂って、そっとしまっている思い出があまりに多い。
隣に家を構える祖父母とは毎日会い、放課後の時間も、毎度の晩御飯も休日も一緒に過ごした。
共働きの両親に代わり、迎えや食事の支度をしてくれるなかで、祖父母は、時折これまでの紆余曲折や、右や左も分からぬ私へアドバイス、そしてほぼほぼ他愛もない話をしてくれた。
祖父母だけでなく、地域のおじいちゃんおばあちゃんにもよくしてもらった。「年に一度の4つも同じ数字が並ぶめでたい日が誕生日だから」という納得しそうで首をうなずき損ねる理由でスーパーのケーキをくれたり、”ももちゃんなまえでちょったねすごいねえ”と黒電話の放送をきいてお話をしにわざわざ来てくれたりした。
いつしか、私のゆめは「思慮深いおばあちゃんになる」になり、これは今も変わっていない。
私のライフコースの最も根幹にこんなテーマをたてさせたのは、まさに、少子高齢化だ。
こどもがそう多くない、だから今いる子はしっかり愛情を注ごうという少子化と、確かに高齢だけど、これまでよりは健康で朗らかな老後を送る高齢化なしに成立しえないのでは。そう思う。
少子高齢化、どう捉えるか。地域の活性化、どう捉えるか。
そもそもどうして良くないの?そもそもなんで変えようとしてるの?
と聞き返すときに差し掛かっているんではないだろうか。
しぼむこと、さみしくなること、ゆるやかによわまること、わびしくなることも愉しみたい、受け入れたい、とここに、味をしめたわかいもんは思っている。
文・もも