ヤマグチをささえる外部性 | はるももの社会学 #2
上京してのカルチャーショックエピソードの十八番がある。
電車に乗っているおばさま方
世間話をしている(うんうんここまでは良い)にもかかわらず
「~なのよね」
「~していらしたのね」
「だと聞いたのよ」(!?)
と、なんとなんとアナウンサーことば(当時はそう思っていた)を使っとったのだ!!
電車の中で取り繕ってはいたはずだが、衝撃的すぎておばさまたちも私の視線を感じていたことだろう。
所かわって私のふるさと、山口の片田舎では
ほかの話題ももちろんではあるが、世間話は特に
「~じゃけえ」
「へてから~」
「そねえにたいぎな~」
「それいね」
と濁点と長音符の方言オンパレード
なんとも気の抜けたもの聞きをしている。
考えてみるに、都市の内包する「外部性」として「標準語」があげられるのではないかと思う。
イタロ・カルヴィーノが皇帝の都市にあるといった外部性
「異なる社会や文化の差異を結びつける共通の規範性」
にこれはまさしく合致すると思うからだ。
ふと考えてみた。
渋谷スクランブル交差点のあちらこちらの広告の音声が鹿児島弁だったら―。
「おいがけしんかぎいつくったおかべさたべてみんさい」
首都高速道路の掲示板の記載が津軽弁だったら―。
「こいんだば、わんつかねでから、ひっぱりへ」
「どっぷりど、くれぐなてがら、ばやめぐな」
ここまで書いて言うのも何だが、意外と耳にも目にもキャッチ―で悪くないないなあと思いなおしつつ、しかし、やはり伝うべきものがなんにも伝わらないことは事実と認めざるを得ない。
違う土地に育ったものからすれば、まさか豆腐を宣伝しているなんて思わないし、疲れているんだったら少し寝て運転しなと気遣われているなんてわかるはずもない。
標準語は、都市を構成する共同体の誰にもわかりよく、共有できるという外部性の表象であり、これなしに都市は成立しえない。標準語が都市の外部性であることの確認と外部性がいかに都市を都市たらしめているか理解することができる。
ただ、さらにもう一歩踏み込んで標準語という外部性を考察してみると、時代や地理的環境が異なれば、同じ意味の外部性でも姿かたちを異にすることが往々にしてあるのではないかと思えてきた。
例えば、東京のあちらこちらにある最近の広告や電光掲示板、看板やニュースには必ずと言っていいほど英語翻訳があるが、これも新手の標準語であり、外部性ということができるだろう。これは数十年前にはなかった外部性である。
一方、西へ下って九州の大都市、福岡に目を向けてみれば、そうした
グローバルな標準語は中国語や韓国語にとって代わられる、トイレや地下鉄など公共施設に行くとそれがよくわかる。
また、私とは逆の育ちをした人からすれば、旅行先でなんとなくつけたローカル番組で方言で題されたコーナーがあったり、地方新聞やフリーペーパーに当然のごとく理解できない方言のタイトルがついていたりして驚くことも少なくないはずだ。
先ほどはあれほど外部性とかけ離れた存在と定義したが、しかし、これは考えてみるに、方言は地方という都市における、れっきとした標準語であり、外部性なのではないだろうか。
このようにして標準語を例に都市の外部性考えてみると、先述した通り、外部性は時代や地理的環境に左右されることが分かる。そしてそれをもっと深めていくと、とどのつまりそれは、その都市を構成する共同体に依存していると言い換えられる。
時代が変われば、土地が変われば、そこにいる共同体も七変化し、それに対応して外部性も七変化するのである。
外部性は誰かによってどこかからとってつけられるような代物ではなく、そこにいる構成要因たちが知ってか知らずか、互いの関係をはかり合い、ともに生きていくために作り出した、言うなれば「知恵」だ。
文・もも