なぜのタイミング
生徒には問いかけをして、積極的に言語化を求めるけれど、という話
きょうは、いわき3日目
震災後2度目の福島は、前回からちょうど3ヶ月の日
学び舎をつくることで復興支援に関わる
他拠点の支援の現場に、足を踏み入れて少したった
中学生や高校生、進んでいれば半歩下がりたい子も、側と身とが一体になりきらない子、そんないろんな子どもたちと出会っとる
多様な関わりのなかで生きている今は楽しいもんだ
学習や探究の空間では、生徒に対して、問いかけをする、自分自身はどう思う?なぜ?と
でも、自分は意外とそのような作業を怠ってしまう、違和感があるのだ
多分それは、思考の起点を、なぜ?からはじめてしまうからだと思う
言葉を考えるよりも、先に感情があると感じる
だからこそ、理由をとう作業が、無駄なように思えてくるってわけ
子どもたちに対しては、その子の経験をさかのぼってみて
リフレーミングしているけど、自分に対しては、あんまし考えられん
自分はずっと変化し続けていると思うから
やっていく中で、最初に自分が持っていた理由や動機、欲しかった結果にたどり着くと思っとるから
なぜ?と問うことが、難しいのではない
なぜ?という問いかけを
いつするのか
どこにひびかせるのか
これが大事なんだな
見立てを持つことは大事やけど、
そればかりに時間をかけていると
見立てではない状況を受け入れられんくなる
「そもそも思い通りにいかない」
「そもそも理由は複雑で言葉にできるものではない」
この前提をもって初めて
なぜの深さが始まると思うな〜ってね
なぜを確かめるために、
文責・もも