道草家(みちくさか)の誕生(秘)話
(前回のつづき)
「なりゆきの風」に思う存分吹かれてみる経験は、楽しくもあったし辛くもあった。先行きの予想できない冒険を想像してみればよい。その生き方は、予定調和のお化けみたいになっているこの社会の在り方とは逆の在り方をしているだろうと考えようと思えば考えられるが、まー、根無し草と言えばまだマシなほうで、はじめのうちは単に「無職の人」にすぎなかっただろう(少なくとも他人から見たら)。
「なりゆきの風」に乗って、どこかにゆこうとしたら、その人にはその人のセンスが問われる。
周囲の理解を得ようなんていう考えは、まず捨てなければならない。でも話し相手が誰もいないというのも辛いから、あれこれ話して、ある程度は理論武装もできなければ、もたないかもしれない。
生きる知恵、言い方を変えると「自分の助け方」をたくさん学ばなければならない。
しかし大変そうなことばかりに向き合っているとすぐに疲れる。動き続けて疲れたら休んで、また動き出せばよいが、すぐに疲れてしまうというのはよくない。妙な負担がかかってるということだから。なぜこんなに疲れるのだろうと考えてみる必要がある。
なかなか、すぐにはうまくゆかない。
すぐには結果は出ないものだ、と思っておけばよい。
とりあえず、自分オリジナルの肩書きを考えてみるというのは、面白い行動だった。お金もかからないし、楽にできる。
とりあえず、バカバカしいと思う肩書きでいいから、思いつく限り書き出してみる。
コツは、できるだけ「考えないこと」だ、思いついたらすぐに書き出してみる。
ぼくの場合は勤めを止める前に、●●会社△△△の下窪サンでは会社から外に出たときにとても恥ずかしいので個人的な肩書きを十も二十も考えてすでに使っていた。
その中に、「道草家(みちくさか)」というのがあった。
小学生の頃、竹に何か文字を彫れと言われて、「努力」という二文字にした、いまから思えばつまらない子供だった。というのもじつはそれが自分には似つかわしくない言葉だと気づいていた。しかし「努力」は良いものだという刷り込みがあった。そのときは想像もしない。努力にも良し悪しがあるとは!
「努力」よりは「道草」がよい。
平時はともかく、危機のたびに自分を救ってきたのは「道草」のようなことのほうだ。
やれと言われたことから、また、世間でイケてると思われてるようなことから、いかに逸れるか。
だから、「道草すべきだ」と言われると、私はまた首を傾げて、それは道草ではないんじゃないの、なんて思う(そういうことはたびたびあったし、これからもあるだろう)。
道草は、つい、してしまうものである。
「道草すべきだ」からもいかに逸れるか…
いつも「まだ興味ないこと」に興味もってる、ということかしらん。
だから、ぼくの場合、同じようなことをしているようでいて、じわじわと興味が移ろってゆく(新しいことをやろうとする)わけ、かな。
半分冗談で(ということはもう半分は本気で)「道草家」を名乗っていたら、ある時から、ぼくのことを「道草さん」「道草くん」と呼ぶ人が出てきて、不思議な現象が起こり始めた。「なりゆきの風」に吹かれようと決めてから、2年近くたっていた。
(つづく)
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