ボンヤリとした危機を生きる〜『るるるるん』vol.4を読む
『アフリカ』最新号が完成する少し前に、『るるるるん』vol.4が届きました。
『るるるるん』については、以前にも書いたことがありますが、UNI、かとうひろみ、3月クララという3人が、「毎回、決められたお題から、それぞれの短篇小説を書き発表する」というプロジェクト(そのお題はTwitterで募集したり、信頼する人に候補を出してもらって決めたりするらしい)。
私はvol.1を未読、vol.2から読んでいて、vol.2には「冷蔵庫」、vol.3には「鏡」というお題がありました。
「冷蔵庫」は日常生活の中にある空間で、冷蔵庫を書き置きさえすれば、その場は存在して感じられる。そこに、3人3様の"冷蔵庫観"が現れてきていると感じながら読みました。
「鏡」も日常生活の中にあるものだという点では変わらないけれど… そのもの自体に場が存在しているのではなく何物かを映しだす媒体なので、小説の中に場を生み出すには"アクション"が必要なんじゃないか、というふうなことを私は読みながら考えました。
さて、今回(vol.4)は「付箋」です。
日常生活の中で確固たる存在感を放っている「冷蔵庫」や「鏡」に比べたら、「付箋」は何とも微妙な存在、と言えば言えそうです。付箋を持たずに暮らしている人もいそうですから。
しかし私は、付箋と親しい暮らしをしています。
本の気になる箇所に目印として、しおりのような感じで使うこともあるし、ワークショップでもよく使っています。その場で急に何か書けと言われたら構えてしまいますが、付箋にひとこと、ふたこと書くのなら気楽に書けるという人が多いので使い勝手がいいんです。いろんな大きさの、かたちの、付箋があります。一度貼って、二、三度くらいであれば貼り替えることができるというのもいい。一度貼り付けた文脈から切り離して、別の流れに置くということが容易になる道具というわけです。
「付箋」で小説を書くなんて考えてみたことがありませんでしたが、いざ考えてみると、なかなか面白そう。
そんなことを考えながら、『るるるるん』vol.4を開きました。いや、ちょっと待って、その前に、表紙の女性(たぶん)に見られます。
vol.3でも挿画を描いていた唐澤龍彦さんが、今回は表紙も手がけています。付箋を四箇所に貼った本を、彼女(?)は右手だけで開いて持っています。しかし目はその本ではなく、こちらをじっと見つめている。髪の渦巻きも美しい、何となくミステリアスで、印象的な表紙です。
その表紙を開くと、かとうひろみさんの「はじめに」があります。
読んでみると冒頭から「本号の対談企画で語られていたように、付箋とは薄くて、何の意味もなくて、「使ったらゴミ」なのです。」なんて書いてあり、何とも挑戦的? なので、まず、そのかとうさんの小説「三十年/三百年/永遠」のページを開きました。
読み始めてみると、意外にも、というのは変でしょうか(小説だと思って読むからですね)、エッセイ的な書き出しで、おっ? と引き込まれます。そんな感じで物語はゆっくりと始まるのですが、どうやら人生三百年時代になる未来の話らしい。これにはびっくりしました。
三百年というのは、長く感じます。いま2023年ですから、三百年前というと1723年。江戸幕府の将軍・徳川吉宗の時代です。
そんなに長く生きたくないよ、というのが私の正直な気持ちですけど、物語の中の人たちも戸惑っているらしい。でもそれが現実になっているので、受け入れている。主役と言える「すみれ」は百何歳からしいのですが、読んでいると、何となくですが、いまで言うところの30代か、40代の感じです。考えてみれば、人生三百年としたら百歳は人生の1/3なので、そのくらいになるんでしょう。
暮らしは、といえば、いまの2020年代とあまり変わらないようなところもある。でも作者の狙いはたぶんそこ(SF的設定)にはなくて、時間の長さがぐーんと伸びたら…というところにあるんでしょう。
そう思って読み進めると、どうやら老いということへの実感がない、薄いということが重要な課題になっているということに気づきます。
そこに夫婦関係の時間が問題となってきます。そのことになると「三十年は長い」という。じゃあ三百年はどうなるのか、もう長いという感覚すら消えてしまうのではないか。で、この小説は簡単に言うと、離婚話。
そのことをめぐる、思索と行動が小説を動かしてゆく。付箋は、その夫婦間の思いもよらないやりとりの媒体になります。
「三十年/三百年/永遠」は『るるるるん』vol.4の後半に置かれています。でもそれから読んでしまったので、後ろから順番に読みました。
3月クララさんの小説「影は夜、自由な透明になる」では、語り手である「わたし」の、バラバラになった家族のことがいろいろと書かれています。
自分の家族の話ですから、語り手にはわかきりっていて、いつもウンザリした気配が付きまとっているんでしょう。私も読んでいるとそんな気分になってくる。そんな気分から少し離れることができるのは、離婚した元夫との食事する僅かな時間くらい。しかし、父の家で、思わぬところに見つかった付箋から、母にかんする謎が立ち上がります。
ただしこの小説は謎ときの面白さよりも、冒頭のさり気ない病室のシーンや、元夫と散歩する「空中回廊」から見える都市風景の描写などを楽しく読みました。
こういう文章には、小さくてもハッとする何かを感じます。私はこんなところに、小説を読む歓びを感じています。
それから「はじめに」の後に戻って、UNIさんの小説「たとえば鯨骨生物群集」を読みます。
いきなりポストイットの雑学が出てきますが、土曜の午後の喫茶店で、見知らぬ男と女がその話をしていて、それを白井という女性が聞いている。そのシーンから変わって、会社のオフィスになると、そこには雪、松田という女性がいます。ふたりは派遣社員としてそこに来ていて、白井は彼らの上司にあたる人らしい。
その三人の視点が代わる代わる出てきて、短い断章によって積み上げられていくという構造でこの小説は書かれています。
UNIさんは『アフリカ』最新号に載っている「日々の球体」でも似たようなことを試していますが、「日々の球体」に比べて「たとえば鯨骨生物群集」はパートのひとつひとつが極端に短くて、カチッ、カチッと場面と主役が入れ替わるような印象を読者に与えます。部分的に、三人の外から作者が解説を加えるようなパートもあります。
三人は、同じオフィスで仕事をしているとはいえ、他人です。お互いのことを深くは知らない。しかし相手が思いもしないようなことを、ふと垣間見ていたりもして、お互いが密かにつながっているような感触を得ます。しかしそのことに、当の本人たちはおそらく気づいていない。作者のあたたかい眼差しが、そこにあるようです。
この文章を含むパートは、この作者らしさを存分に発揮しています。UNIさんはオフィスや喫茶店、家の中にふと現れる付箋の幻影から、粘着力の問題を導き出して、この小説を思いっきり広げようとしているようです。
その書きっぷりは、先に触れた3月クララさんの描写とはまた違う、詩にも近い表現になっています。
3作には共通点も幾つか見出すことができます。似たような年齢の女性を描いているように思え、夫婦間の危機(そして別離)があります。そこに、「三十年/三百年/永遠」には人生の時間の問題、「影は夜、自由な透明になる」には老いた親の問題、「たとえば鯨骨生物群集」には仕事上のいろいろなことが重なってくる。
しかしどんな問題であっても、それはあくまでも人間同士の、詰まらないといえば詰まらないボンヤリとした危機であり、彼女らはそれを重々承知しているようにも感じられます。
この本にはあと、UNIさんによる三人旅の記録や、唐澤龍彦さんと牧田幸恵さん、ますはらゆりさんによる(今回の3つの小説にかんする)語り合いの記録、唐澤さんによる表紙の解説なども載っていて、わいわい賑やかにつくっている感じが伝わってきました。
(つづく)
『アフリカ』最新号は、ぼちぼち発売中。近々、ここでも詳しくご紹介しようと思っています。
来週の金曜(4月21日)21時からは、戸田昌子さんのインスタライブにお邪魔します。私がウェブ上で、顔を出して話をするのは、珍しいことかも? よかったらご覧ください。