"個人的な"のひろがりについて
『アフリカ』の話を、あと少し続けようと思うけれど、今日は『ビッグ・イシュー』最新号(No.362)に載っている記事の話から。
参議院選が近づいてる。それに限らず最近は、政治の話をすることが増えたような気がする。
『ビッグ・イシュー』最新号の特集は、「民主主義を見捨てない」だ。宇野重規さんによる、三つのインタビューからなる。
「政治の議論ではみんなが違うことを言って当たり前、違う考えを持っている人たちがどうやって一緒に暮らしていけばいいのかを考えることからスタートするもの」が政治だと言い、普通の人が「モゴモゴわがままを言うことを応援したい」と話す富永京子さんのインタビューがひとつ。
次が、翁長武治さんのインタビュー。自らを元・ネトウヨと言い、その気分を代弁しつつ、「体制批判はすべき/「強い国、日本」は危険な言葉」と気づいた経緯を語り、「みんなが言いたいことを面と向かって言える社会の土壌をつくっていけたら」と言う。富永さんのインタビューとも通じるところがある。
最後は、"決定する"ことをめぐる坂井豊貴さんのインタビュー。これが面白い。
人間には、「私的な自分」と「公的な自分」がある。「公的な自分」とは、「私を捨てるわけではなく、私を含む「私たち」の運営をどうするか、というような思考を引き受ける」自分ということ。
「自由」の概念について語っているところが面白い。
ある考えや欲望に突き動かされているような状態は、けっして自由ではなくて「欲望の奴隷」である、と言う。「私的」な部分と「公的」な部分の両方を自分で選べば自由になる。つまり、自分のことだけを考えているのは自由でもなんでもない、他人のことを考えることがむしろ自由なんだ、と、ここでは定義されている。とっても興味深い。
(あと、「多数派の専制」ということばを初めて知った。民主政治の体制下において、多数者の名で行われる専制。日本政府がいま沖縄に対してやってることは「多数派の専制」だ。また現・政権は多くの場面において、「多数派の専制」をやっている。)
さて、ぼくは『アフリカ』を、「日常を旅する雑誌」とか「個人的な雑誌」とか「プライベート・プレス」とか、いろいろ言っている。
今日はその"個人的な"について。
ぼくはウェブ上での発信や、インターネット上に公開された場所でのコミュニケーションにおいて、個人的なことをオープンにすることには慎重な方だと自分のことを思う。
けっこう出してるじゃない? と言われるかもしれない。それは、ぼくのことを知らないから言えることではないかと思う。
たとえば自分の好きな人と過ごす時間、愛する家族と過ごす時間を、外に向けて発信したいとか公開したいと思うところは全くない。なぜそんなことをしなければならないのか? ぼくにはわからない。
ぼくは『アフリカ』のような媒体をつくっていなければ、TwitterをはじめとするSNSも、遡るとブログに行き着くのだが、それもやっていなかっただろう。
"個人的な"と言いつつ、けっして"私的"なものではない。外向けのものであるわけだ。
ぼくの感じている"個人"には、単なる私的空間ではない、ひろがりをもった部分がある。
"私的な"をはみ出す部分というのは、どんなことにもある。
そこに何を見るか? そこから何を受け取るか? というのは、単なる私的なことではないからだ。
『アフリカ』はそういう試みの集合体だとぼくは思っている。
(つづき)
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、7月13日。 今日は、『アフリカ』最新号とひなた工房の豆マットを販売開始したばかりの珈琲焙煎舎(府中市)──の、お隣サン、知る人ぞ知る肉屋の名店・市川精肉店の話。
これはそこで買ってきたメンチカツとコロッケをパンに挟んで食べた昨日の朝食風景。
※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝に更新しています。